2014年12月14日

光と闇

田舎の夜はいつも素敵だ。わざとらしく街を煌々と照らす人口的な光はなく、月の仄かで優しい光が大地を照らす。人々の手元にある灯油ランプや懐中電灯は、辺り一面を照らすことはなく、それらは、夜空に点在する星のように、ぽつぽつと見えるのみだ。そうか夜は暗かったんだよな、と当たり前な、しかし多くの近代人たちが忘れてしまったことに気が付かせてくれる。

マンゴーの木や土壁の家、トウモロコシ畑の背後に、黄土色の満月が夜空に浮かび上がる様子は、おそらくこの世で最も美しいものの一つだろう。昼の間、太陽の光に照らされ、全く別々の個々の存在として浮かび上がっていた事物が、夜の闇のなかにあっては全てが溶け合い、全体で一つを形作るようになる。光と明るさが支配していた世界は反転し、闇と影が大地を満たす。満月の照明を背負った事物は、立ちながらにして影となり、色彩豊かな姿から一転、黒一色を全身に纏った姿に変わる。事物から明晰さは失われ、境界が消滅し、輪郭は、もはや個を浮かび上がらせるものではなく、全体を一つに融合する働きを担う。ここでは、あのマンゴーの木も土壁の家もトウモロコシも、藪や土の中で眠り、目を見開き、働いているだろう大小さまざまな動物や虫、微生物も、そして私たち人間も、互いの区別はなくなり、一つの世界を作り上げるために存在しているかのようである。

人は、夜や闇、暗さといったものを、昼や光、明るさのなにかしら否定的な存在として捉えがちだ。しかし、夜空を見上げ、広大な宇宙を想像するとき、光の中に闇が存在するというよりはむしろ、無限にひろがる暗闇の中に光がその存在を置かせてもらっているようにすら思われてくる。ただ、だからといって闇は光を否定せず、光も闇を否定しない。むしろ光の存在を前提に闇が、闇の存在を前提に光が存在しているのである。この大地では、夜は、昼を否定して訪れるものではなく、地球の、自分の立っている部分が太陽の方を向いた時に昼が訪れ、反対側を向けば夜が来るだけの単純なものにすぎない。おそらく、人間は昼を活動時間に選んだために、昼の特徴である光を良いものと捉える傾向にあるのだろうが、夜が活動時間の動物たちにとっては、光と闇に対する感覚は人間とは随分異なることだろう。光が存在しなければ闇は存在せず、闇が存在しなければ光もまた存在しないように、明るさの中でより活動的に生きるものも、闇の中でより活動的に生きるものも、互いの存在を前提にその存在を維持している。両者に優劣はなく、それぞれが個として存在しながら、同時に、全体として一つの世界を形作っているのである。


光と闇の関係を考えるとき、私は、近代西洋文明と非西洋文明の関係を連想せずにはいられない。光が事物を照らし、個々の存在に明晰さを与えるように、近代西洋文明では、あらゆる事物を細分化し、個々の存在が強調される。人間も含め、事物は可能な限り小さな単位に落とし込まれ、その一つ一つに特有の名前がつけられ、理路整然と分類、整理され、論理的な解釈、明確な意味づけが与えられる。あたかも私たちの生活する世界は、その一層は保健の世界であり、他の一層は教育の世界であり、また別の一層は農業の世界であるといったふうに層をなしている世界の一系列かのように捉えられ、世界は、一つの有機的な全体であるよりも、互いに孤立した諸部分の複合体であるかのような様相を呈する。病気は専門の医師によって診断されなければならず、教育は学校で担われ、農業は農家が行わなければならない。人間と自然の間には明確な境界が引かれ、人間と自然とは切り離され、自然は人間が許容する範囲で利用されるにすぎない。また、しばしば個人主義と言われるように、社会生活において、「個」が社会に先立つ基本単位であり、日々の生活がより小さい単位で完結している。近代西洋文明の作り上げてきた社会では、生活の雑事はすべて家庭内で完結し、隣人との協力はほとんど必要でなくなっている。個人でも一定の現金収入を稼げるようになったために、独力で生計を営める個人の数も多い。

他方、非西洋文明、特に私が現在触れているアフリカ文明では事情はだいぶ異なる。意図的か偶然なのかは不明だが、起こっている事象の要素を細分化し、分類して、科学的に全てを解明しようとする姿勢は見られず、社会の中に曖昧さを多く残している。事物の解釈は、それを説明する理論や理屈よりも、経験や言い伝え、または友人、知人などからの伝聞に依ってなされ、原因不明の事態には、科学的な原因究明よりは、神の仕業や呪術といった一般の人間を超越した何かに原因を求めることが多い。現地の人たちが、「神のみぞ知る」と言葉を発するのを聞くと、一般の人間に全てを理解することは困難であることを、ある種のあきらめのような形で、認識しているように思われてくる。世界は、切り取られた部分の集合ではなく、まとまりが有機的に連なることで形作られている。私たちの生きる世界は、農業、教育、保健などの分野ごとに切り取られるのでなく、それぞれの生活に関わる分野が生活に関わる範囲でまとまって意識されている。事物の境界は曖昧なままで、自然と人間を別個の存在として分け隔てる境界も設定されない。人間は自然の一部に否が応でも組み込まれ、時に生活を脅かされながら、偉大な自然の中にひっそりと身を置かせてもらっているかのようである。


夜、人工的な光を照らすとかえって暗くなると感じることがある。月明かりで優しく照らされていた大地も、蛍光灯の強い光が近くにあると、急に暗く思われてくる。逆に、普段、電気で照らされたところで停電がおこると、月の明るさに気が付く。電気の光は、月明かりによって本来は明るいはずの夜ですら暗いものに変えてしまう。

光から見る闇はただの暗闇にしか見えないが、闇の中にいると闇は決して何も見えない真っ黒な世界ではない。近代西洋文明は、その「光」でもって非西洋文明の「闇」を照らすことで、様々な問題を浮かび上がらせ、その解決のために救いの手を差し伸べようとする。近代西洋文明という「光」によって、世界全体を常に「明るい」状態に保とうとする。しかし、昼があって夜があり、光があって闇がある世界が、もし常に昼で、全てが光だったらなんて退屈だろうか。夜の闇の中で、とはいえ完全な暗闇ではなく、月明かりの仄かで優しく、まぶしすぎない灯りに包まれたアフリカ農村部の大地の上で、近代西洋文明と非西洋文明は互いを否定することなく、対等な立場で共存することは出来ないものかと、私は考えを巡らせるのである。
posted by 木村だっくす at 17:18| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

エボラ出血熱は昔からベナンに存在していた!?

2014年8月上旬、エボラ出血熱疑い患者がポルトノボで出たと言うことで、JICAベナン支所より隊員宿泊所へ退避することが命じられ、同月下旬に帰任許可が下りるまで、一カ月弱コトヌーで過ごすこととなった。このエボラ出血熱に関しては、ポルトノボの疑い例発生直前までは、現場の人々はエボラなんて全く聞いたことのないような顔をしていたのに、疑い例発生の直後になると、とたんに「エボラ予防法」に関する情報を街中の人が―全ての人が、と言っても過言ではないほど多くの人が―入手していた。聞くと、ラジオやテレビ、それに家族・友人・知人間の伝聞によって急速に拡がったようだ。この「予防法」に関しては、情報発信から半日足らずで、迅速にかつ正確に街中に拡めることを可能にしたベナン社会の情報伝達網に驚くとともに、その具体的な予防方法にもだいぶ驚かされた。予防には、温かいお湯と塩と生玉ねぎで身体を洗うと効果があるという。なんでもギニアのある医者が言いだしたとか言い出していないとかで、とにかく街中の人が信じ、その予防法を実践していた。


そんな人騒がせなエボラ出血熱だが、実は昔からベナンにも存在していた、という話を耳にした。

エボラ、エボラと聞きなれない名前をつけるから同定できなかったのだが、よくよく症状について聞いてみると、ナゴ語でogodoと呼ばれる病気のことに違いない、という。ogodoは昔からベナンに存在していて、その病気になったものは森の中に隔離され、呪術を伴った伝統的治療師(現地人による仏語表現ではcharlatanもしくはvisionnaire。「ロワイヤル仏和中辞典」によると前者は「いかさま治療師」、後者は「夢想家」「見神者」との訳語があてられているが、現地では決して否定的な意味では用いられておらず、肯定的な意味での伝統的治療師や呪術師、占い師の総称である。)による治療を受ける。治療師は、占いによって使用する煎じ薬を決め、治療を開始する。または、草木が治療師に直接語りかける(!)ことによって煎じ薬が見つけることが出来る場合もある。占い、もしくは草木からの直接の働きかけによって、患者に使う煎じ薬の種類と場所(採取場)が判ると、治療師は裸で採取しにいく。その間、誰にも見られてはいけないため、真夜中零時や1時に藪に入り、煎じ薬の素となる草木を探す。真夜中なので藪は暗闇であるが、治療師には既にどこに目的の草木があるかわかっているため、一直線にその場に向かう。その後、その煎じ薬で治療をする。

治療が終わったら、使った煎じ薬や患者の来ていた服(布)はすべて森の中に埋められる。全身の毛を剃り、爪を切り、それらも土に埋める。完治したら、すべて新しい布で服を作った後、家族のもとへ帰ることが許可される。無事に家族の下に戻った患者は、山羊などを購入し、儀式(セレモニー)を行う。儀式をすることで、それ以降、家族は同じ病気にかからなくなる。


これは、にわかに信じがたい話であるが、個人的には少なからぬ真実を含んでいるように思える。患者を森に隔離するところや(患者の体液が付着していると思われる)服を土に埋めて触れないようにするところは、エボラ対策(患者の隔離、体液に触れない)との共通点を感じないだろうか。

国際機関によると、エボラ出血熱は、1986年にコンゴで発見されたと言われているが、この「発見」はあくまで先進合理人がその病気に「出会った」という意味で、コロンブスのアメリカ大陸「発見」と同じ意味であるように思えてならない。エボラウィルスの保有動物は、はっきりとした結論は出ていないものの、野生動物(コウモリ等)ではないかと言われている。もし仮にそれが正しいとすれば、日常的に野生動物を食べることの多いアフリカ人の中に、1986年以前に、まだ発症確認されていない国や地域でエボラ患者が出ていたとしても不思議ではない。また、たとえエボラ出血熱のような患者が現れたとしても、伝統医療や呪術への信頼が厚いアフリカ社会においては、近代医学や科学を用いて病気の原因(ウィルス)の解析をしようとする発想は出てこないだろうし、それを探ろうとしたとしても先進合理人たちが認めうる検査をする技術や設備もないだろう。そうなると、土地の人の噂や言い伝えの形で症例が残ることはあっても、記録としては残らない。


先人の蓄積を侮るなかれ。煎じ薬の知識に関しても、西洋医学によってその効果が科学的に実証されていないだけで、中には効果的なものも含まれている、というのが個人的な実感だ。アフリカ社会では、幾代も世代を重ね、知恵や知識を蓄え、後世に伝えてきた。近代西洋医学のやり方とは異なるが、薬(煎じ薬)や病気の「研究」も行われており、それらの研究成果は秘密裏に―私の接しているアフリカ社会は秘密社会と言っても過言でないほど、一般の人は知ってはいけないとされる事柄が多い―次世代に引き継がれている。学校教育は近代西洋医学をもって「医療」とみなし伝統医療を否定するが、人々の間では未だに伝統医療に対する信仰は篤く、病気になっても病院にはいかず、煎じ薬など伝統医療で治そうとする人も少なくない。そして、実際に、彼らは伝統医療によって治癒し、その後も元気に生活している。エボラ(ogodo)治療法も、西洋医学を全面的に肯定する立場からは一笑に付す話だろうが、一度その立場を離れ、アフリカ伝統医療を再評価する観点から眺めれば、そう簡単には否定できるものではないかもしれない。

なお、このような言い伝えのようなエボラ関連や煎じ薬についての話は、基本的に高齢の人からしか聞くことが出来ず、話してくれるのはいつも50歳以上の人たちである。エボラに関する若者の反応は異なっていて、ラジオやテレビで騒がれているエボラ出血熱の存在自体を疑っている人も少なからずいる。エボラ騒ぎは、「白人」がデマ情報を流しているのが原因ではないかと疑っている。実際、ベナンにエボラ患者は一人も出ておらず、身近にエボラにかかった人がいないため、エボラ出血熱という病気があると言われても、そう簡単には信じられないようだ。(ちなみに、エイズに関してもその存在を疑う声も時々聞く。「白人」がアフリカ文化を破壊しようとする陰謀ではないか、と。)
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生身の人間力

現地の人の、生身の人間としての力強さにはいつも驚嘆させられる。

無駄な脂肪のない引き締まった胸板や腹筋、逆三角形の背中、肩から指先まで続く腕全体の筋肉の流れ、そして綺麗な曲線を描く臀部から伸びる、上半身とは対照的な細長い脚は、筋力トレーニングによって意図的に作られた肉体では表現できない、実際の生活上の要求から生じる労働で培われてきた強靭さとしなやかさを表現している。皮膚、特に手の平や足の裏は、信じられないほど堅く分厚いため、火の付いた炭や調理中の鍋を手掴みすることや、石や草、時にはガラス片も混じる地面を裸足で歩くことも容易に出来る。畑での雑草刈りは、もはや雑草の域もとうに超えた、ぼうぼうと生い茂った草木の中に裸足で入っていき、山刀などの最小限の道具と己の肉体のみでやってしまう。

力強さは、肉体にとどまらない。人間が集まる、ただそれだけで、会話が弾み、笑い、泣き、楽しむことができる。数人集えば、会話だけで数時間は簡単に経過する。時には大声で笑い飛ばし、時には目に涙を浮かべながら、実に様々な話題に話を咲かせている。街中でよく、女性同士が大声で会話している様子を見かけるが、顔の表情から手の動き、身体全身を目一杯使って感情を表現する姿に、私は人間としての力を感じずにはいられない。あたかも、自己表現をするために、その大きな身体をわざわざ長い年月かけてこしらえられたかのようである。

大人ばかりでなく、子どもたちも力強い。緻密に設計され、遊び方が明示されたおもちゃがなくても、身の回りにあるものを自分のおもちゃに変え、街中のあらゆるところを遊び場にしてしまう。鍋の蓋や使わなくなった自転車のタイヤを枝で転がしながら駆けていく姿や、葉の一部を折り中央に細い枝を指して風車を作って遊ぶ姿も良く見かける。捨てられた缶詰めとプラスチック製の米袋で作った太鼓やペットボトルなどを楽器にした即席の音楽隊を形成し、ほとんど形をなしていない穴のあいた球体でチャンピオンズリーグに出場する。

また、老若男女問わず、うまくいかないことを「まぁそんなものか」と受け入れる力にも感心してしまう。先進合理人の私の感覚からすると、任地の生活は、思い通りに事が運ばないことが多い。買い物の時にお釣りがないのは当然のこと、雨が降ったら道がぬかるむせいで移動がうまく出来ず待ち人が来ない、もしくは店が開かない、停電のせいでどうしても今日したいコピーが出来ない、予定していた待ち合わせが無期限延期となるなど、うまくいかない例は枚挙に暇がない。だが、現地の人たちは、慣れているからか、こうした事態に直面しても、苛立つことも不平を洩らすこともほとんどない。全くないとは言わないが、ほとんどないと言っても差し支えないほど少ない。(私自身、赴任当初は、苛立ち、不満に思うこともあったが、あまりにも上手く行かないことが多く、また現地の人たちが全く気にする素振りも見せないため、いつの間にか、苛立つこと自体が馬鹿らしく思え、「まぁそんなものか」と気にせず過ごせるようになってきている。)

このように生身の人間としての力強さを生活の随所でのぞかせる一方で、その力を、人間の周囲にある外的環境に手を加え、人間が生きやすいように環境そのものを変化させようとする方向に用いることは少ないようである。特に農村部では、ある程度の自然状態を保ったまま、生活しているような印象を受ける。よく行く村の畑も、自然の地形を少し掘り起こしたようなところに畝を作り(もしくは畝すら作らず)、トウモロコシやマニオク(キャッサバ)を植えていて、無理に地形を変形させたり、整備した形跡は見られない。また集落そのものも、自然環境を大きく変形させて人間の住処を作るのではなく、自然の一部に家を数軒ちょこんと置かせてもらっているというように映る。

ある時、地域の草サッカー大会の決勝戦を観戦しに行ったことがある。会場をしっかり確保し、観戦にはチケット購入が必要、テントで来賓席も作り、おまけにマイクとスピーカーを通した実況付きという手の入り様。プレーする選手の中には、ベナンサッカーリーグのプロ選手も含まれており、選手全員のユニフォームもそろえた、かなり本格的なサッカー大会であった。しかしながら、グラウンドは全くと言ってよいほど整備されておらず、ところどころ雑草が生い茂り、グラウンドの起伏も目立った。日本で小中高とサッカーをやってきた私にとっては、このグラウンド未整備は少なからぬ驚きだった。日本のサッカーでは、グラウンドの使用前、使用後にはグラウンド整備が必ず伴う。グラウンドが整備されていないと、パスしたボールが思い通りに届かないことや、起伏に躓く危険もあるし、なにより良いサッカーが出来ない。しかし、現地の人たちは、グラウンド環境を整備しようという意思は微塵もないようで、グラウンドが整備されていないことを問題視する声は一切挙がらなかった。

外的環境を変える意思が少ないはっきりとした理由はわからないが、昼の太陽の暑さや雨季の雨など、人間の力ではどうすることも出来ないような自然環境の中で世代を重ねてきた彼らには、環境に手を加える、という発想自体が本来的に存在しないのかもしれない、と私は考えている。人間を圧倒する自然環境の中で、彼らは、外的環境を無理に変形させるよりも、人間の力そのものを高める方法で発展してきたのではないだろうか。彼らの筋力や病気への耐性は、何百年にもわたってこの地で世代を重ねてきた発展の結果であろう。外的環境を変え、生活がより楽に、便利になるように身の回りの道具を開発してきた先進合理社会から来た私のような外部者と現地の人々との肉体的差異あるいは思考法の違いは、それぞれの社会が選択してきた発展形態の違いから生じているのかもしれない。

少々単純化しすぎているきらいもあるが、大まかに言えば、先進合理社会は、外的環境や身の回りの物質を開発することで社会を発展させてきた文化で、一方のアフリカ社会は、人間の力を豊かにすることで社会を発展させてきた文化と考えられるだろう。ここでは、前者を「物質文化」、後者を「人間文化」と呼ぶことにする。本来、文化に優劣はないはずだが、今の世界は、歴史の偶然か神の仕業で、物質の豊かさが社会の豊かさを測る基準となったために、物質文化が人間文化と比べて「より優れた」文化であるとみなされることが多い。そして、「より優れた」物質文化の人々は、(表面的には)慈善心や正義感から、「より劣っている」人間文化を「より優れた」物質文化へと転換させようとしている。いつの間にか、この世界では、人間文化の方が物質文化に合わせなければならなくなってしまったのである。


人間文化から物質文化への転換は、社会の根底に流れる価値観の変更を余儀なくさせる。人間文化の価値観と物質文化のそれは、根本的に異なっているからである。

物質文化の思考様式は極めて目的的である。それは、未来のある時点においてのある目的を達成するために、現在何をしなければならないか、という逆算的、合理的思考である。思考のベクトル(指向)が未来から現在にむけて一直線に伸びている、と言い換えることもできるだろう。物質文化では、具体的であれ抽象的であれ、まず始めに目的が設定され、その上でその目的を効率的に達成するために様々な努力が向けられる。例えば、電力供給は、企業の経済活動や市民の快適な生活にむけて必要な電力量が設定された上で、その電力量を安定的に供給できるよう発電設備が整備されて、発電がおこなわれる。消費したいエネルギー量ありきであって、その消費予定量を減らすという考えはない。消費したい量はそのまま、それを供給できるように環境を変え、物質を整えていくのである。外的環境は人間とは明確に切り離され、対象化され、環境や物質は、人間が人間の目的を達成するために、利用されるにすぎない。

一方の人間文化の方は、目的(=達成したい結果)よりも過程に中心価値が置かれているようである。連綿と続く自然の大きな流れの中に、人間の現在が位置付けられ、あらゆる可能性がある未来に向けて人々が歩んでいる。思い通りにならないことも想定内で、神のみぞ知る未来に向けて、今この瞬間を生き、次の瞬間に次の一歩を踏み出すのである。物質社会と比べ、未来志向は薄く、明確な目標設定も見られない。外的環境は対象化されず、人間は環境の中に溶け込んでいる。

私は、ここで、「人間文化」とまとめて論じているが、この「人間文化」の思考の方向性は、生物一般のそれと極めて近いのではないかと考えている。生物は、地球上に誕生してから現在まで、周囲にある自然環境に適合しながら(または、適合したものが)生き残ってきた(=遺伝子が次世代に受け継がれてきた)が、その間、生物は、外的環境を変形させるという意思を持たず、その時その時の環境を所与のものとしてきた。未来のある時点からの逆算的思考は存在せず、意識は常に現在に向けられ、その現在は自然の大きな流れに漂い移ろいでゆく。


一方の文化が、価値観の根本的に異なるもう一方の文化への統合を余儀なくされた時、それは価値観のみならず社会の姿かたちまで大きく変容させることになる。自然環境が中心に置かれている「人間文化」から、人間の活動が中心に置かれる「物質文化」への転換が促されることは、社会の根本的な思考の方向性が目的的になることを意味し、また固定化された目的を達成するために、環境を変形させることをも厭わない社会になることをも意味する。

社会のあらゆる側面が貨幣価値に換算されて測られる「物質文化」におけるもっとも中心的な目的は、経済成長である。この際限なき目的に向けて、環境や物質の条件整備が行われているのが、私たちの目にする物質文化の主たる特徴と言っても過言ではない。

経済成長の中心的役割を担うのは、企業活動であるが、現代の企業活動には、コンピューターを始めとする機械が欠かせない。そして機械の動力として、相当量の電力供給が必要不可欠であり、安定的な電力供給にはそれに見合った発電設備が必要で、発電設備を稼働し続けるためには、石油や水力(ダム)、原子力が安定的に確保されなければならない。ヒト、モノの移動をスムーズにするためには、自動車、舗装道路、トンネル、橋、鉄道網などの交通環境条件が整えられなければならず、人的資本、すなわち経済に参加する人間の能力(識字、計算、論理的思考など)を高めるためには近代学校教育が整備されなければならず、効率的な作物栽培のためには、畑に機械が導入され、化学肥料によって人為的に必要な栄養分を選択して与えられなければならず、現在生きている人間を一人でも多くの人を一年でも長く生き残らせるために近代医療設備が整備され、ワクチンや予防薬、新薬が開発されなければならず、絶えず排出される様々なゴミを処理する施設がなければならず、河川はコンクリートで固め人為的にコントロールをし、上下水道が整備されなければならない。

物質文化の社会システムを円滑に運営するためには、外的な自然環境は大きく変形され、物質はある特定の目的だけに利用され、目的にそぐわない無駄は徹底的に排除されていく。この目的的な思考法では、目的達成に資するか、という点のみに関心が向けられ、外的環境と人間活動の関係や自然の供給能力、また外的環境の変形や物質を豊かにすることのネガティブな副作用が考慮されることが少ない。


人間文化から物質文化への転換に関する私の主要な問題意識は、価値観の根本的な転換を余儀なくされる点(すなわち、これまで持っていた価値観が失われる点)、目的的な超合理的思考によって過度に自然環境が変形される点のみならず、外的環境を変形し、物質を豊かにすることによって、それまで人間文化の持っていた生身の人間力を減退させることにつながるのではないか、という点にある。

人間文化で、これまで人間の身体力(骨や筋力、皮膚の固さ)によって行われていた作業は、物質文化においては機械に取って代わられる。雑草刈りや薪割り、畑仕事、長距離移動などを行うための身体力はもはや必要なくなり、人間はただ機械を操作出来れば良いだけになる。機械の操作は大抵、ボタンを押したりや操縦バーを動かしたり、アクセルやブレーキを踏んだりする程度に過ぎず、人間の身体一つで行っていた時ほどの筋力は要求されない。

また、物質が豊かになるにつれて、人々は次第に物なしでは、楽しみを見出せなくなる可能性もある。一つの例がインターネット機能付き携帯電話だ。最近、任地サケテでもインターネットが出来る携帯電話を持っている人が、若者中心に増えてきた。携帯会社も、通話用プリペイドクレジット(クレジ)を購入すると、数メガバイトのインターネット通信を無料サービスしていることも相俟って、インターネットへのアクセスが急速に拡大している。その影響で、街中で携帯画面に夢中になっている若者の姿を良く見かける。彼らが夢中になってやっているのは、フェイスブックなどのSNSサービスや友人、知人、恋人とのメールである。人といる時ですら、目の前の人を等閑にして、携帯に夢中になっているものすらいる。以前は、人がただ集まっただけで楽しめたのが、それだけでは飽き足らず、その場にはいない知人友人の情報やどこか遠くで起こった事件のニュースといった刺激物がないと楽しめなくなってきているように感じる。

子どもの人間力を削ぐ可能性のあるのは、おもちゃである。最近、任地では、ナイジェリア方面から入ってきていると思われるおもちゃが多く販売されるようになってきている。ミニカーやアクセサリーから、大きなトラックや飛行機のおもちゃなどが良く目につく。中でも、小学生に大人気なのが、プラスチック製のプロペラおもちゃ(小25フラン、大50フラン)だ。小学校でも街中でも、子どもたちがこのプロペラおもちゃで遊んでいる様子は良く見かける。この様子を見ていて、私は日本の子どもたちが(私の子ども時代も含めて)テレビゲームや携帯ゲーム機(ゲームボーイなど)に夢中になっている姿を連想した。というのも、おそらく、子どもたちは楽しむために次第に強い刺激を求めるようになっている気がするからだ。はじめは、鍋の蓋や捨てられた空き缶や米袋で楽しめていたのが、次第に楽しむためには、簡単なつくりのおもちゃを必要とするようになり、ゆくゆくはもっと緻密で刺激的なゲームが必要となってくるのではないだろうか。おそらく、享楽というものは、一度強い刺激を覚えてしまうと、その強い刺激がなければ楽しめなくなってしまう不可逆的なものなのだろう。きっと、日本の子どもたちに鍋の蓋やプロペラおもちゃを渡してもこっちの子どもたちのように楽しむことは難しいだろうと想像する。

さらに、環境を整備し、物質を豊かにすることで社会が便利になればなるほど、「まぁそんなものか」とうまくいかないことを受け入れる力が低下するのではないかという強い懸念がある。物質文化では、社会システムは極めて円滑に機能していて、生活する上で上手く行かないことは少ない。買いたい物を買うのに他人との余計な関わりはないし、お釣りがないことはありえない。注文したものはすぐに届き、24時間365日開いている店もあって、雨の日も交通機関は動いていて、道路も舗装道路だからぬかるむことはない。私の現在いる社会とは正反対で、すべてが簡単に出来てしまう。

この何の障害もなくスムーズに生活が行えている物質社会において、何か上手く行かないことがあった場合、「まぁそんなものか」と受け入れ、流せる人はどれだけいるだろうか。学生時代に過ごした東京の駅構内や電車、街中では舌打ちをよく耳にした。肩と肩がぶつかったであるとか、切符が改札を通らないとか、他人の話し声がうるさいとか、人が多いとか、とにかく今思えば全然大したことないようなことで人々が苛立っていたことが無数に思い出される。上手く行くことが当たり前になりすぎて、上手く行かないことを受け入れることができなくなってしまうのだろう。


身体の力強さや喜怒哀楽などの表現、物質に頼らずに楽しむ能力、うまくいかないことを受け入れる力…。生身の人間力がすごく高い人々が息づく人間文化である現場の社会。もしこの人間文化が物質文化へ転換してしまったら、私が現在感動して止まない彼らの人間力は減退し、自然環境は元の姿からはかけ離れて人間の都合のいい部分だけ利用され、物質が溢れる代償として狭量な心を生みだし、物質的な豊かさのみが社会の価値を決める社会になってしまうかもしれない、と私は懸念している。物質文化に近づこうとする必死の努力を一旦休め、これまで物質文化の辿って来られなかったような、人間文化の価値観を基盤とした独自の発展に向けて歩みを進めることは出来ないものだろうか。

…このように考えるのは、自らは物質社会であらゆる刺激を一通り味わった先進合理人が、今度は原始的なものに好奇心が向いた結果の、ねじ曲がったエゴであろうか。
posted by 木村だっくす at 17:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小馬鹿

現地の人々と話すと、特に初めて話す相手や付き合いが浅い相手の場合、小馬鹿にされたような態度を取られることが少なくない。
うすら笑いを浮かべながら、ジロジロこちらを見て、仲間内で私について何か話している。現地語で話しているため会話の内容は分からないが時々エイボと「白人(黒人以外の外国人)」を意味する言葉が聞こえてくるので私について話しているのは明白だ。一通り目の前の白人の噂話が終わったら、次に彼らの口から出てくるのは「何かくれ」という言葉である。その言い方は非常に軽々しく、さきほどのうすら笑いを浮かべながらなので、何かくれという要求も白人を小馬鹿にする一つのやり方なのだろうと想像する。この要求は、半ば冗談、半ば本気な言いぶりで、くれたらラッキーくらいの感覚で話しているものと思われる。この私の目には失礼に見えるこうした現地の人々のコミュニケーションは、ひどく私たち外来者を苛立たせる。外来者の反応は、小馬鹿にした態度に苛立ち怒りだすもの、無視して通り過ぎようとするもの、逆に相手を小馬鹿にするもの、一緒になってふざけ始めるものなどまちまちである。

人を小馬鹿にしたような態度には、赴任から一年経った今でも私は時々苛立ってしまうのだが、最近は、こういう態度は現地人式の一種のコミュニケーション方法なのかもしれないと思うようにもなってきた。小馬鹿にしたり、金くれと言ってみたり、半ば冗談半ば本気の言葉を外来者に投げかけることを通じて、その外来者がどういう人物かを判断しているように思える。真面目すぎる奴か、または一緒にふざけ笑いあえる奴なのか、仲間になりうる奴か、はたまたお金を落としていくだけの奴なのか、そういう判断をしているように思えるのである。実際、現地人同士で会話しているのを見聞きしてみても、相手のことを小馬鹿にすることが多い。数人で一人の人をこれでもかというくらい馬鹿にすることもあれば、お互い馬鹿にしあったりすることもある。また、こうした彼ら流の冗談についていけず、冗談を真に受ける外来者に接した場合、外来者をIl est sérieux. (彼はまじめだ)と言う評価を口にすることもある。このsérieuxは、良いニュアンスではなく、どちらかというと、真面目すぎる、面白みがないという意味を込めたある種の否定的な言葉である。

小馬鹿にした態度は、相手との付き合いの深度によって若干ニュアンスが違ってくることにも気が付いてきた。初めて話す相手、付き合いが浅い相手だと、それこそ「あの外人をからかってやろう」というニュアンスが強いのだが、一緒にいる時間が長くなってくると現地の人同士でふざけあう感覚を私に投げてくる場合が多くなってくる。付き合いが深まり、互いの身の上話からかなり下品な下ネタまで様々な話が出来るようになると、そうした仲間内のコミュニケーションの一部に、小馬鹿にする、というものが位置を占めるようになる。つまり、現地の人々にとって小馬鹿するという行為は、コミュニケーションの一部、言い換えれば、信頼関係を構築するプロセスの一部と捉える事が出来るのではないだろうか。したがって、私たち外部者は、小馬鹿にした態度に苛立ち、彼らと距離を置くのではなく、それも彼らとのコミュニケーションだと考えて積極的に小馬鹿にし合っていけばいいのかもしれない。そう思うようになってきた。

まぁ、そうは言っても、苛立つものは苛立つのであるが。
posted by 木村だっくす at 17:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

時間

昼下がりの村の一角で、乱雑に生えた草木やヤシの木を見て、遠く鳥のさえずりを聞き、さしかけの下で、特に会話をするでもなく現地の人と過ごしていると、ここの時間の流れはゆるやかだなと感じる。カレンダーや時計の文字盤の上に示された日付や時間は、ここでは何ら意味を持たない概念に過ぎないと思われてくる。あたかも普遍的なものであるかのように、世界のいたるところを覆っている日付や時間の支配は、ここには及んでいないようだ。何月何日何時何分というものは、きっとここではほとんど意味はなく、ここに流れているのは、ただ太陽が焼くように大地を照りつけ、風が木の葉や枝、ヤシの大きな切れ切れの葉をゆらしながら通り過ぎ、鶏が雛を数匹つれて小道を横切り、蜥蜴が素早く木を駆け上がる瞬間だけだ。そうした瞬間が、ただ連続して流れている、それがここの時間である。


時間の流れ方、捉え方は人によって異なる。

これはここ数カ月で私が体感的に理解出来たことだ。これまで時間の流れは、時計の文字盤に示されているように24時間という枠で捉える事が出来、万物に共通、常に一定の速度で一直線に一定方向に流れているものだと考えていた。私は、子どもの頃から、カチカチと音がしない、秒針が文字盤をなでるように進む時計が好きで、遊びに行った家や病院、歯医者などでそのような時計があると、じっと眺めては秒針の滑らかな動きを追いかけた。それを見るたびに、時間は一定の速度で流れているんだなと感心したものだ。ベナンに来てからも、初めの頃の私にはアフリカの人々の生活にも時計の示す時間が浸透しているように見え、地球のこんなところでも同じ時間が流れているのかと感心した。ある時、人類の歴史で、現在まで最も影響力を持っているのはだれか、ということを考えたことがあるが、その時の結論は、暦を考えた人と一日を24時間と考えた人であった。理由は、年月日や時間の概念が、日本をはじめとする先進合理社会のみならず、ベナンの人々の生活にまで浸透している点に、時と空間を超えた普遍性を感じたからであった。

数カ月前から、人々の生活を捉えようと、市井に生きる人々と多くの時間を過ごすようになった。協力隊と聞いてイメージするような、いわゆる「活動」とはかけ離れた、人々とただ会話をする、ただ時間を一緒に過ごすということに大部分の時間をかけ始めた。長々と立ち話をし、椅子に一緒になって腰かけて何時間も同じ風景をただ眺め、料理や洗濯の様子を横で静かに観察し、茣蓙で一緒に昼寝をし、畑で種を蒔き、ふざけあって笑う。そんな人々の生活を一緒になってやり、観察し、時には真似ごとのようなことをして時間を過ごしていた。すると、ある時、ふと、日本での生活とはリズムが違うなという感覚を抱いた。日本では、物事が目まぐるしい速度で進んでいて、時間や期限は当然守られるものとして考えられ、短時間である特定の目的を達成する(例えば、電車で目的地に向かう、スーパーで欲しい商品を買う、洗濯機で洗濯する、電子レンジで温めるなど)ように社会は回っている。しかし、私が触れている人々の生活からは、日本で感じたようなリズムより、ずっとゆるやかで無理のないリズムの中で生活しているような印象を受けた。

そんな折に、「生物学的文明論」という本を読む機会があった。これは、生物学の視点から現代(先進国)社会を考察した非常に素晴らしい本なのだが、その中で、動物によって時間の流れ方が違うこと、現代人の時間概念は古典物理学の絶対時間概念が生活の基礎となっていて生物学的時間概念とは異なること、そして物理学の絶対時間概念は、敬虔なキリスト教徒であったニュートンによって、創世記から終末まで一直線に、万物共通で流れる神の時間概念、西洋キリスト教的時間概念が物理学の世界に持ち込まれたことがきっかけであることが述べられている。この生物学的時間概念と古典物理学的な現代人の時間概念に違いがあることを知った時、なるほどそういうことか、と思った。私は、「現代人」の時間概念の中で生活をしていたため、一定の速度で普遍的に時間が流れることを当たり前だと考えていて、ベナン社会でもその時間が当然流れているものだと考えていたが、そもそも時間がみんなにとって同じ速度で流れていると考える点が誤りだったのだ。時間は、万物に共通で、一定の速度で流れているものではない。時間こそは、多様なものなのだ。私が感じたリズムの違いは、この時間の捉え方の違いから生れているのだろう。

この視点を持って人々と接し始めると、社会の時間の流れだけでなく、一人ひとりの時間の流れも違うことがわかってきた。わかってきた、と言っても私がここで言っているのは時間をどう感じるかという感覚のことであるし、また一人ひとりにあなたは時間の流れをどう捉えていますかと聞いたわけでもないので、あくまで人々と接した私個人の感覚でしかないのだが、人によって時間の流れ方が違う、と感じるのである。休み休みゆっくりと洗濯をする母親と何時間も同じところに座っている老人、鍋の蓋を木の棒で転がしながら駆けていく子ども、休暇で実家に戻ってきた大学生の若者とでは、時間の進むリズムが若干異なっている。人の数だけ時間の捉え方がある…!

この人はゆるやかな時間の中で生きているんだな、自分もそのゆるやかな流れに漂ってみよう、と思いながら人々と接するようになると、相手の時間を大切に出来るようになり、また、相手の時間を大切にすることの大切さがわかるようになってきた。そうなると途端に、協力隊の派遣期間や国際協力自体の捉え方も考え直さねばならないと思われ、様々な疑念が湧いてきた。協力隊の2年間という派遣期間は外部者が持ち込んでいる時間概念に他ならないのではないか。私たち協力隊員は、限られた期間で活動をすることが求められ、そして時に「成果」を出そうと焦って活動をしているが、その期間や焦りはあくまで外部者の都合に過ぎず、現地の人々には全く関係のないことなのではないか。現地の人々と私たちの時間概念が異なるのであれば、私たちがすべきなのは私たち「現代人」の時間概念を現地の人々に押し付けることではなく、現地の人々の時間の流れに私たちの方を合わせていくべきではないか…。

国際協力を謳い、現地社会に入り込まんとする私たちは、先進合理社会の様々な概念を身体に浸み込ませているが、それらの概念は、私たちにとっては、あまりにも当たり前のものとなってしまったが故に、自分たちが先進合理社会の概念を纏っているという事実にすら意識を向けないことが多い。そして、私たちにとっての「当たり前」が、あくまで私たちにとっての「当たり前」にすぎないという「当たり前」の事実を意識しない現在の―昔からそうだったのかもしれないが―国際協力は、ともすると、現地の人々の概念の方を、私たち「現代人」の概念に合わせて、均一な概念のもとで世界システムを運営していこうとする、傲慢で偏狭な利己主義に陥った、名ばかりの「協力」に成り下がっていると思わずにはいられない。時間の捉え方は、本来、社会によって、人によって多様であっていいはずなのに、国際協力の名の下に、私たちは先進合理国の「近代的」時間概念を現地社会に押し付けているのではないか。

時間の捉え方、流れ方が人によって異なることを体感的に理解できると、2年間のうちに何か活動をしなくては、と考えること自体がナンセンスなものに思われてくる。「協力」が、ベナン共和国のお偉いさん方のため、もしくは私たち外部者自身のためでなく、現場の人々のために行うものであるならば、私がすべきことは2年間のうちに目ぼしい成果をあげるような「活動」ではないはずだ。「協力」が人々のためのものであるならば、現地の人々の歩みに合わせて、自分も一緒になって歩んでいこうとする姿勢を持つべきなのではないだろうか。「協力」が人々のためならば、他でもなく私の方が人々の時間の流れに合わせる姿勢でもって人々に接して行くべきなのだろう。人々の時間の流れに、私自身の存在を浮かべ、一緒になってゆったりと流れていけたら、それも一つの「協力」と言えるのではないだろうか。
posted by 木村だっくす at 17:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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