2013年12月16日

「何故」という問いについて考えている。

「何故」という問いについて考えている。(超長文です。流し読み推奨。)
「何故」という問いは、説得的な答えを持っていないものに対しては、非常に強烈で、暴力的である。

「何故」は、投げかける人にとって非常に簡単で手間のかからない、楽な質問である。「何故」の一言で、相手からいろいろなことを聞き出せるから。「何故」は、質問者にとっては、挑戦でも挑発でも暴力でもない、ただの好奇心から発せられる問いであることが多いと思う。

しかしながら、この「何故」という問いは、その質問を受けとる側にとっては、攻撃的に映ることも少なくない。質問者の「何故」という一言によって、「何故」を受け取った側は、あれこれと理由を述べ、質問者を納得させることが暗に求められる。質問者の好奇心を満たす、と言ってもいいかもしれない。

質問する側は「何故」という一言であるのに対して、答える側は多くの言葉を並び立てなければならない。「何故」の問いかけが一方通行である場合には、釣り合いのとれない会話となる。


「何故」との出会い
以前アメリカに留学していた時のこと。親しい友人のなかにヨーロッパからの留学生が多くいた。彼らは、よく「何故」を問いかけた。当時の僕にとって、この「何故」に答えることはとても辛い作業であった。そのため、多くの場合、「特に意味はない」と答えていた。

一つには、頭の中でふわふわしている理由を彼らに話したところで彼らを納得させられるか自信がなかったためで、もうひとつには語学力の問題で自分の考えを上手く英語に変換する自信がなかったためである。いずれにせよ、「意味はない」との返答に対して、彼らは決まって納得のいかない顔をした。

だから、僕はこの「何故」を問いかけられた時、なんだかあまり良い気持ちがしなかった。というより、「何故」は僕にとっては非常に不快であって、暴力的に映った。そんな僕の気持ちも表明しないから相手にはわかってもらえず、その後も「何故」の問いかけが止まることはなかった。

しかし、人間にはそれなりに適応能力があるらしい。「意味はない」と答えると怪訝そうな顔をされることがわかると、次第にその場で思いついた口から出まかせの理由を語るようになった。出てきた理由があまりにも適当に選ばれた言葉である場合には、さらに「何故」を繰り返され、かえって自分の立場を悪くすることもあったが、答え方に慣れてくると(コツをつかむと、と言ってもいいかもしれない)、僕の適当な答えにも納得してくれる人も増えてきた。少なくとも僕にはそう映った。

僕が答える「理由」は、口から出まかせ、良く言っても喉から出まかせ程度の浅い理由であった。「理由」は。その場の思いつきに過ぎないものであったが、「何故」を切り抜けることが出来るようにはなった。「何故」への耐性が身に付いた。


「何故」耐性の活躍
「何故」耐性は、大学院時代にはよく活躍した(「大学院時代」と言っても、協力隊に来る関係で3カ月しかなかったが)。僕の通った大学院は日本にあったが、国際的であり、7割以上は留学生という日本では比較的珍しい環境であった。アジア圏からの留学生が多かったが、なぜか南米からの留学生も多かった。僕がたまたま選んだ研究室のある三階には南米出身のものが多く、ラウンジではスペイン語が飛び交う光景は珍しくなかった。そんな彼らと僕はすぐに打ち解け、仲良くなった。

彼らとの会話では、「何故」のやりとりが頻繁に行われた。彼らの問いの立て方などは、なんとなくだが、アメリカ留学中に出会ったヨーロッパ人留学生たちと似ていたような気がした。この時には「何故」耐性がそれなりに形になっていたようだ。かれらの「何故」にたいして、さほど苦労なく答えられたし、相手も僕の答えに納得しているようであった。この時点では、以前感じたような不快感は抱かなくなっていた。

「何故」の問いが普通になってくると、次第に自分の口からも「何故」という問いを発するようになっていった。「何故」を中心とした会話は、理論的なように思えたし、何よりそれを通じて留学生らと同じ土俵で話が出来る「国際的」な人になった気がした。

「今後国際的に何かをするかもしれない。今後も何故の問いかけはつづけよう。」そう思っていた。僕は、こんなタイミングでベナンに来た。


「お金くれ」
ベナンでは、僕を見かけると、条件反射的に「エイボ」と声をかけてくることは前回記事にした通りである。人によっては、二言目で「お金くれ!」と言ってくる。「エイボ!」と言う人の一割から二割程度の人たちが、お金を要求してくる。「エイボ」と呼ばれ続けることにも苛立ちを覚えたが、「お金くれ」にはもう少し苛立つ。

ベナンの社会は一見すると「貧困」には見えず、人々に生活の困窮感はない。人々は、ゆっくりとそれぞれの時間を生きているような印象を受ける。ここでの「お金くれ」は、アジア諸国で見るような切迫感の伴ったものではない。一言でいえば、「軽い」、あまりにも軽い。

ベナン人によると、この「お金くれ」は単なる冗談にすぎないから簡単に聞き流していればいいということだ。そんなものか、と思って聞き流すことにした。いや、聞き流す努力を始めた。

しかし、この簡単に聞き流すという作業、頭で理解するのと、実際に行動すること、自分の心の動きが全く異なることを実感させられる。頭では、簡単な冗談だから、とわかっていても、心ではどうしても苛立ってしまうことも多い。特に自分があまり良い状態でない時、疲れていたり、何かのストレスを感じていたりする時になると、この「簡単に聞き流す」は難しくなる。

「何故、おれに金を求めんだ。」
少し前に、たしかあれは水曜日だったように思うが、いつも行っている市役所の前で友人らと昼ごはんを食べていた。日差しが強烈で、気温も高い1時ごろだった。その日の料理は何故かいつもよりピーマン(唐辛子の一種)が多く入っており、辛かった。そんなところに35歳くらいと思われる男が市役所に向かってきた。そして、僕を見つけるなり、「お金をくれ。腹減ってるんだ」と言ってきた。この男の言い方も例に漏れず、軽いものであった。

午前中の活動の疲れ、暑さ、なぜかいつもより辛い食事。いろいろなことが重なって、僕は苛立ってしまい「簡単に聞き流す」ことが出来なかった。勢い余って、「お前誰だよ。何で俺が知らないやつにお金をあげなきゃいけないんだ。」と言った。勢いで発言してしまう自分が嫌だが、この時もまたその嫌な自分が出た。

ほどなくしてその男に再会した。それまで会ったことがあるようには思えなかったが、その男は市役所で働いている人であった。「市役所の人だったのか。まずい言い方してしまったな」と数時間前の発言を後悔した。そして、何事もなかったかのように、他の人に対してと同様に、その男にも挨拶に行った。

僕「ボンソワー、ムッシュー。」

男「(むすっとした顔で)お前はさっき俺のこと知らない、と言っただろ。俺に挨拶しないでくれ」

僕「はーなんだよそれ。それはお前が失礼にもいきなり『お金くれ』と言ってきたからじゃないか。ていうか何故金くれっていうんだ。何故、俺に金を求めるんだ。何故そんなこと聞くんだ。何故だ!」

これまでいろいろな人から言われてきた「お金くれ」によって自分の中に溜まっていたストレスをその男にぶつける形となった。二人の間には、気まずい空気が流れた。


何故って言われても意味はない
この件について友人のアーメルに相談した。ベナン人はなぜすぐに「お金くれ」と言うのか。彼は、それは冗談だと言った。
冗談ならもっと面白いことを言ってくれと思ったが、そんな思いをよそに彼は続けた。

「別に意味なんてないんだ。それは冗談なんだ。だから「何故」と聞かれても理由はない。俺達は、ただそれを言って楽しんでいるだけなんだから。いつも理由を求めるのは欧米人のやることだろう。俺たちは大した理由もなくお金くれというし、深い理由のない質問をしたりする。だから何故と聞かれても困るし、何故という問いはここではあまり大きな意味はない。」


僕はアメリカで「何故」のシャワーを浴び、「何故」耐性を身に付けた。「何故」に答えられて「何故」を問いかけられるようになると自分は「国際的」な社会で生きていけるように成長したんだなと思った。「何故」耐性は、南米出身の人たちとの会話でも役に立ったので、きっとアフリカでも役に立つだろうと考えていた。

たしかにこれまで経験してきた「国際的」な社会においては、「何故」のやりとりは重要であるように思えた。しかし、この「国際的」という時、それが意味しているのは「欧米」のことではないだろうか。そう思えてきた。「何故」に耐えられることが「国際的」である条件の一つのように思っていたが、それは「欧米的」であるための条件かもしれない。
僕は、知らず知らずのうちに欧米の価値観に染まっていたのではないだろうか。

理由を求めることが正しいと(無意識に)思っていた。ここではそれは違う。
僕がここの人たちのちょっとした発言に、「何故」を強く問いかければ、きっと彼らは、僕がかつて感じたような気まずさや不快感を抱き、僕の問いかけを攻撃的と捉えるだろう。「何故」の問いはここでは意味をなさない。

質問したものを納得させるような答えを持っていない者に対しては、「何故」という強烈な問いは、暴力と呼べるほど攻撃的なものであるように思える。


前回「エイボ!」について書いた。
最近、「エイボ(白人)」と呼ばれたら「オニヤドゥドゥ(黒人)」と呼ぶことにしている。そうすると、たまに普通にouiと言ってくる子がいる。
なんだ。「エイボ」ってのもただの呼びかけじゃないか。大した意味はないんだな。

今日も「お金くれ」と言われた。500フランくれと言われたから、1000フランくれたら500フランあげると答えた。適当に会話したら、彼は去っていった。
結局「金くれ」も口だけで、本当に欲しいわけじゃない。その発言に大きな意味はないんだ。そのやりとりを楽しめばそれでおっけーなんだ。

そう考えると苛立ちが少なくなってきた。気持ちが楽になってきた。

たわいのないやりとりに「何故」はいらないのだと思う。


読んでくださった方、ありがとうございました。
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posted by 木村だっくす at 07:37| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
読んでるぜ!頑張れ!エイボ!
Posted by ひっくりカエル at 2013年12月16日 12:41
まさかコメントしてくれるとは思ってなかったから、びっくりしてひっくりカエルところだったよ。
ありがとう!
Posted by 木村だっくす at 2013年12月16日 20:55
フォロー感謝です。
確かに「何故」という問いは、他愛のない呟きに対して発せられた際は鋭く突き刺さりますね。
ドイツにホームステイした時の事を思い出しました。

ベナンのお話勉強になりました。
Posted by 無職童貞 at 2013年12月29日 09:23
勝太、文化の違いに戸惑っているみたいだけど、ベナンの人たちと軽口たたけるくらいリラックスできるといいね。大変だろうけど難しく考えず気楽にがんばれ!そっちは日本や欧米とちがって時間がゆっくり流れているみたいだからあせらずにね。
Posted by パパだよ at 2014年01月05日 01:57
無職童貞さん

こちらこそフォローありがとうございます。
「何故」という問いそのものの問題と問いかけ方も問題もあるように思います。「何故」に慣れている人達は、慣れがある分、問いかけ方も鋭いものになっているような気がします。

ブログの視点が面白くて好きです。更新、楽しみにしています。
Posted by 木村だっくす at 2014年01月13日 06:23
父よ、
コメントありがとう。焦ると物事はうまく進まないものだね。
限られた時間を活かすには、
焦らないこと、でもゆっくりとしすぎず時には急ぐことも大切だと思っているよ。
Posted by 木村だっくす at 2014年01月13日 06:26
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