2014年08月14日

本当に死んだのか?

死とは何か。
先日、ヤギ2頭の屠殺を見た。ラマダン(断食)明けの祝いのために家で屠殺をした。喉笛をかき切り、血を出し殺す。身体に空気を入れて、毛を剃り、内臓を取り出し、肉を切る。これといった苦労はなく、ヤギは死んでいく。一頭目のヤギを処理している間、二頭目のヤギはまだ生きていて、一頭目の隣でそれまでと変わらぬ様子で佇んでいた。

屠殺の一連の様子を見て、「いのちの大切さを知りました。」
というありきたりな感想は一切抱かなかった。

代わりに私が抱いたのは、「ヤギは本当に死んだのか?」という疑問であった。

不思議なことに、私には、死んだヤギがほんの数分前まで隣で佇んでいるヤギと同じように生命を宿していたという事実が信じられなかった。同じ個体であるはずなのに、生命を失う前と後で、全く別の存在であるかのように思えたのだ。
死んだヤギからは表情が消え、動きが消え、そして生命が生き物に与えている「何か」が完全に欠けていた。生命を失ったヤギは、もはやヤギとして存在を維持することができず、ヤギの外見を保持したまま肉片と化した。生命を宿していた頃のヤギとの関係は一切断ち切られている。生命を失ったヤギは、「生命を失った」というよりも、元々生命というものを持ちあわせていなかったかのようである。私の前で、ヤギの生と死は完全に断絶しており、両者は重なることも、同一線上に続いてもいなかった。

眼前に横たわる肉片は本当に生命を宿していたのか?
ヤギは本当に死んだのか?


私はこの疑問を抱いた時、ある知人を思い出した。彼はよく行っていた村の長老で、片足がなかった。数年前の交通事故で大怪我をし、切断したのだと言う。彼は、村の入り口に住んでいたため、訪問の度に挨拶する人で、この地域の伝統的なゲームが伝説的に強かった。先日(ヤギの屠殺の一週間ほど前だったか)、久々にその村に訪問すると、その長老が亡くなったと聞いた。突然のことで驚いたが、驚きの次に私が感じたのは、ヤギの屠殺で感じた疑問と同じものであった。

彼は本当に死んだのか?

確かに、頭では彼が亡くなったことを頭では認識している。しかし、それまで動いていたもの、私と関わりを持っていたものが、突然動きを止め、関わることをやめたという現実を感覚レベルで実感出来ないでいる。あの笑顔が素敵な長老と表情の一切を失った遺体との間に、関係があるとは思えなかったのである。彼は死んだのではなく、この世のどこか、私たちの見えないどこかに隠れているだけなのではないか。彼の生は、いまもどこかで続いていて、彼の遺体とともに提示された死は、彼の生とは全く関係のない新たな現象のように思えた。

彼は本当に死んだのか?この死は彼のものなのか?
posted by 木村だっくす at 08:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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