2014年09月07日

エボラ退避の流れとその時々の思い考え3(ドミ滞在終盤)


これまでの記事
エボラ退避の流れとその時々の思い考え1(疑い発生〜コトヌー退避)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え2(ドミ滞在序盤〜中盤)


8月19日(火)〜26日(火) 自分を制限する牢屋への気付き、脱獄の決意、滞在終盤

ナイジェリアのエボラ状況、6日に最後の新規患者が出て以降、新たな疑い例は見つかっていない。2〜20日とされる潜伏期間を考え、27日にはJICAから今後の対応を発表されることとなった。JICA関係者の口ぶりから、発表より前の段階で、任地に帰れる可能性が高いと想像した。


ドミで生活をし、本を読み、いろんな人と話しをしていく中で見えてきたもの。それは、自分の行動を制限しているのは、外にいる誰かでなくて自分自身である、ということ。自分で自分を架空の牢屋に閉じ込めているのである。結局、決断するのも、行動するのも、自分。やりたいことが出来ないのは、出来ない理由を探す自分がやらないからであって、自分に覚悟と行動力があればやりたいことを出来るはず…

ドミでの生活における現場から離れていく感覚も、自分が生活の仕方を変えればある程度はどうにでもなる。洗濯機が嫌なら自分で手洗いすればいいだけの話だし、レストランなんか行かずに道端のご飯屋さん探して食べれば良いし、ナゴ語が話したければ話せる人を探せばいい。すこしずつ行動制限が解けてきて、街に出てもいいことになっているのだから、ドミに留まっているのは、自分の選択でしかない。だったら、自分の選択を変えれば良いだけの話。

任地サケテでの生活では、村に少し滞在したいな、という気持ちが芽生えていたものの、一度も泊まったことはなかった。その一歩を踏み出せなかったのは、サケテの家に一緒に住む大家に夜帰ってくるように言われていたことや、配属先の視学官事務所にも、なんとなく毎日顔を出さないといけない気がしていたからだった。たしかに、いろんな人の意見はあるだろうが、そうした「制限(と思われるもの)」も、結局は、そうしなきゃいけない、と自分で思っているから、その「制限」内で行動しているだけなのではないか?結局、自分の行動を制限しているのは自分自身ではないのか?今の「制限」された行動は、結局、自分自身の選択の結果でしかないのではないか?


読書に耽ったり、映画鑑賞したり、久石譲のジブリ25周年コンサートDVD見たり、フランス語を勉強したり、だらだらしてくっちゃべったり、ギター始めてみたり、ビリーズブートキャンプやったり、語ったり、スキンヘッドにしたり、と任地で生活していると中々出来ないことをいくつかやれて、ドミでの生活はそれなりに有意義であった。だからもうドミに未練はない。任地に帰ったら、もう一歩踏み出そう。自分自身を閉じ込めていた牢屋から飛び出し、村の中に、人の中にどんどん入って、人々の生活を捉えよう。自分を縛る架空の牢屋からの脱獄を決意する。
posted by 木村だっくす at 05:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。