2014年12月14日

生身の人間力

現地の人の、生身の人間としての力強さにはいつも驚嘆させられる。

無駄な脂肪のない引き締まった胸板や腹筋、逆三角形の背中、肩から指先まで続く腕全体の筋肉の流れ、そして綺麗な曲線を描く臀部から伸びる、上半身とは対照的な細長い脚は、筋力トレーニングによって意図的に作られた肉体では表現できない、実際の生活上の要求から生じる労働で培われてきた強靭さとしなやかさを表現している。皮膚、特に手の平や足の裏は、信じられないほど堅く分厚いため、火の付いた炭や調理中の鍋を手掴みすることや、石や草、時にはガラス片も混じる地面を裸足で歩くことも容易に出来る。畑での雑草刈りは、もはや雑草の域もとうに超えた、ぼうぼうと生い茂った草木の中に裸足で入っていき、山刀などの最小限の道具と己の肉体のみでやってしまう。

力強さは、肉体にとどまらない。人間が集まる、ただそれだけで、会話が弾み、笑い、泣き、楽しむことができる。数人集えば、会話だけで数時間は簡単に経過する。時には大声で笑い飛ばし、時には目に涙を浮かべながら、実に様々な話題に話を咲かせている。街中でよく、女性同士が大声で会話している様子を見かけるが、顔の表情から手の動き、身体全身を目一杯使って感情を表現する姿に、私は人間としての力を感じずにはいられない。あたかも、自己表現をするために、その大きな身体をわざわざ長い年月かけてこしらえられたかのようである。

大人ばかりでなく、子どもたちも力強い。緻密に設計され、遊び方が明示されたおもちゃがなくても、身の回りにあるものを自分のおもちゃに変え、街中のあらゆるところを遊び場にしてしまう。鍋の蓋や使わなくなった自転車のタイヤを枝で転がしながら駆けていく姿や、葉の一部を折り中央に細い枝を指して風車を作って遊ぶ姿も良く見かける。捨てられた缶詰めとプラスチック製の米袋で作った太鼓やペットボトルなどを楽器にした即席の音楽隊を形成し、ほとんど形をなしていない穴のあいた球体でチャンピオンズリーグに出場する。

また、老若男女問わず、うまくいかないことを「まぁそんなものか」と受け入れる力にも感心してしまう。先進合理人の私の感覚からすると、任地の生活は、思い通りに事が運ばないことが多い。買い物の時にお釣りがないのは当然のこと、雨が降ったら道がぬかるむせいで移動がうまく出来ず待ち人が来ない、もしくは店が開かない、停電のせいでどうしても今日したいコピーが出来ない、予定していた待ち合わせが無期限延期となるなど、うまくいかない例は枚挙に暇がない。だが、現地の人たちは、慣れているからか、こうした事態に直面しても、苛立つことも不平を洩らすこともほとんどない。全くないとは言わないが、ほとんどないと言っても差し支えないほど少ない。(私自身、赴任当初は、苛立ち、不満に思うこともあったが、あまりにも上手く行かないことが多く、また現地の人たちが全く気にする素振りも見せないため、いつの間にか、苛立つこと自体が馬鹿らしく思え、「まぁそんなものか」と気にせず過ごせるようになってきている。)

このように生身の人間としての力強さを生活の随所でのぞかせる一方で、その力を、人間の周囲にある外的環境に手を加え、人間が生きやすいように環境そのものを変化させようとする方向に用いることは少ないようである。特に農村部では、ある程度の自然状態を保ったまま、生活しているような印象を受ける。よく行く村の畑も、自然の地形を少し掘り起こしたようなところに畝を作り(もしくは畝すら作らず)、トウモロコシやマニオク(キャッサバ)を植えていて、無理に地形を変形させたり、整備した形跡は見られない。また集落そのものも、自然環境を大きく変形させて人間の住処を作るのではなく、自然の一部に家を数軒ちょこんと置かせてもらっているというように映る。

ある時、地域の草サッカー大会の決勝戦を観戦しに行ったことがある。会場をしっかり確保し、観戦にはチケット購入が必要、テントで来賓席も作り、おまけにマイクとスピーカーを通した実況付きという手の入り様。プレーする選手の中には、ベナンサッカーリーグのプロ選手も含まれており、選手全員のユニフォームもそろえた、かなり本格的なサッカー大会であった。しかしながら、グラウンドは全くと言ってよいほど整備されておらず、ところどころ雑草が生い茂り、グラウンドの起伏も目立った。日本で小中高とサッカーをやってきた私にとっては、このグラウンド未整備は少なからぬ驚きだった。日本のサッカーでは、グラウンドの使用前、使用後にはグラウンド整備が必ず伴う。グラウンドが整備されていないと、パスしたボールが思い通りに届かないことや、起伏に躓く危険もあるし、なにより良いサッカーが出来ない。しかし、現地の人たちは、グラウンド環境を整備しようという意思は微塵もないようで、グラウンドが整備されていないことを問題視する声は一切挙がらなかった。

外的環境を変える意思が少ないはっきりとした理由はわからないが、昼の太陽の暑さや雨季の雨など、人間の力ではどうすることも出来ないような自然環境の中で世代を重ねてきた彼らには、環境に手を加える、という発想自体が本来的に存在しないのかもしれない、と私は考えている。人間を圧倒する自然環境の中で、彼らは、外的環境を無理に変形させるよりも、人間の力そのものを高める方法で発展してきたのではないだろうか。彼らの筋力や病気への耐性は、何百年にもわたってこの地で世代を重ねてきた発展の結果であろう。外的環境を変え、生活がより楽に、便利になるように身の回りの道具を開発してきた先進合理社会から来た私のような外部者と現地の人々との肉体的差異あるいは思考法の違いは、それぞれの社会が選択してきた発展形態の違いから生じているのかもしれない。

少々単純化しすぎているきらいもあるが、大まかに言えば、先進合理社会は、外的環境や身の回りの物質を開発することで社会を発展させてきた文化で、一方のアフリカ社会は、人間の力を豊かにすることで社会を発展させてきた文化と考えられるだろう。ここでは、前者を「物質文化」、後者を「人間文化」と呼ぶことにする。本来、文化に優劣はないはずだが、今の世界は、歴史の偶然か神の仕業で、物質の豊かさが社会の豊かさを測る基準となったために、物質文化が人間文化と比べて「より優れた」文化であるとみなされることが多い。そして、「より優れた」物質文化の人々は、(表面的には)慈善心や正義感から、「より劣っている」人間文化を「より優れた」物質文化へと転換させようとしている。いつの間にか、この世界では、人間文化の方が物質文化に合わせなければならなくなってしまったのである。


人間文化から物質文化への転換は、社会の根底に流れる価値観の変更を余儀なくさせる。人間文化の価値観と物質文化のそれは、根本的に異なっているからである。

物質文化の思考様式は極めて目的的である。それは、未来のある時点においてのある目的を達成するために、現在何をしなければならないか、という逆算的、合理的思考である。思考のベクトル(指向)が未来から現在にむけて一直線に伸びている、と言い換えることもできるだろう。物質文化では、具体的であれ抽象的であれ、まず始めに目的が設定され、その上でその目的を効率的に達成するために様々な努力が向けられる。例えば、電力供給は、企業の経済活動や市民の快適な生活にむけて必要な電力量が設定された上で、その電力量を安定的に供給できるよう発電設備が整備されて、発電がおこなわれる。消費したいエネルギー量ありきであって、その消費予定量を減らすという考えはない。消費したい量はそのまま、それを供給できるように環境を変え、物質を整えていくのである。外的環境は人間とは明確に切り離され、対象化され、環境や物質は、人間が人間の目的を達成するために、利用されるにすぎない。

一方の人間文化の方は、目的(=達成したい結果)よりも過程に中心価値が置かれているようである。連綿と続く自然の大きな流れの中に、人間の現在が位置付けられ、あらゆる可能性がある未来に向けて人々が歩んでいる。思い通りにならないことも想定内で、神のみぞ知る未来に向けて、今この瞬間を生き、次の瞬間に次の一歩を踏み出すのである。物質社会と比べ、未来志向は薄く、明確な目標設定も見られない。外的環境は対象化されず、人間は環境の中に溶け込んでいる。

私は、ここで、「人間文化」とまとめて論じているが、この「人間文化」の思考の方向性は、生物一般のそれと極めて近いのではないかと考えている。生物は、地球上に誕生してから現在まで、周囲にある自然環境に適合しながら(または、適合したものが)生き残ってきた(=遺伝子が次世代に受け継がれてきた)が、その間、生物は、外的環境を変形させるという意思を持たず、その時その時の環境を所与のものとしてきた。未来のある時点からの逆算的思考は存在せず、意識は常に現在に向けられ、その現在は自然の大きな流れに漂い移ろいでゆく。


一方の文化が、価値観の根本的に異なるもう一方の文化への統合を余儀なくされた時、それは価値観のみならず社会の姿かたちまで大きく変容させることになる。自然環境が中心に置かれている「人間文化」から、人間の活動が中心に置かれる「物質文化」への転換が促されることは、社会の根本的な思考の方向性が目的的になることを意味し、また固定化された目的を達成するために、環境を変形させることをも厭わない社会になることをも意味する。

社会のあらゆる側面が貨幣価値に換算されて測られる「物質文化」におけるもっとも中心的な目的は、経済成長である。この際限なき目的に向けて、環境や物質の条件整備が行われているのが、私たちの目にする物質文化の主たる特徴と言っても過言ではない。

経済成長の中心的役割を担うのは、企業活動であるが、現代の企業活動には、コンピューターを始めとする機械が欠かせない。そして機械の動力として、相当量の電力供給が必要不可欠であり、安定的な電力供給にはそれに見合った発電設備が必要で、発電設備を稼働し続けるためには、石油や水力(ダム)、原子力が安定的に確保されなければならない。ヒト、モノの移動をスムーズにするためには、自動車、舗装道路、トンネル、橋、鉄道網などの交通環境条件が整えられなければならず、人的資本、すなわち経済に参加する人間の能力(識字、計算、論理的思考など)を高めるためには近代学校教育が整備されなければならず、効率的な作物栽培のためには、畑に機械が導入され、化学肥料によって人為的に必要な栄養分を選択して与えられなければならず、現在生きている人間を一人でも多くの人を一年でも長く生き残らせるために近代医療設備が整備され、ワクチンや予防薬、新薬が開発されなければならず、絶えず排出される様々なゴミを処理する施設がなければならず、河川はコンクリートで固め人為的にコントロールをし、上下水道が整備されなければならない。

物質文化の社会システムを円滑に運営するためには、外的な自然環境は大きく変形され、物質はある特定の目的だけに利用され、目的にそぐわない無駄は徹底的に排除されていく。この目的的な思考法では、目的達成に資するか、という点のみに関心が向けられ、外的環境と人間活動の関係や自然の供給能力、また外的環境の変形や物質を豊かにすることのネガティブな副作用が考慮されることが少ない。


人間文化から物質文化への転換に関する私の主要な問題意識は、価値観の根本的な転換を余儀なくされる点(すなわち、これまで持っていた価値観が失われる点)、目的的な超合理的思考によって過度に自然環境が変形される点のみならず、外的環境を変形し、物質を豊かにすることによって、それまで人間文化の持っていた生身の人間力を減退させることにつながるのではないか、という点にある。

人間文化で、これまで人間の身体力(骨や筋力、皮膚の固さ)によって行われていた作業は、物質文化においては機械に取って代わられる。雑草刈りや薪割り、畑仕事、長距離移動などを行うための身体力はもはや必要なくなり、人間はただ機械を操作出来れば良いだけになる。機械の操作は大抵、ボタンを押したりや操縦バーを動かしたり、アクセルやブレーキを踏んだりする程度に過ぎず、人間の身体一つで行っていた時ほどの筋力は要求されない。

また、物質が豊かになるにつれて、人々は次第に物なしでは、楽しみを見出せなくなる可能性もある。一つの例がインターネット機能付き携帯電話だ。最近、任地サケテでもインターネットが出来る携帯電話を持っている人が、若者中心に増えてきた。携帯会社も、通話用プリペイドクレジット(クレジ)を購入すると、数メガバイトのインターネット通信を無料サービスしていることも相俟って、インターネットへのアクセスが急速に拡大している。その影響で、街中で携帯画面に夢中になっている若者の姿を良く見かける。彼らが夢中になってやっているのは、フェイスブックなどのSNSサービスや友人、知人、恋人とのメールである。人といる時ですら、目の前の人を等閑にして、携帯に夢中になっているものすらいる。以前は、人がただ集まっただけで楽しめたのが、それだけでは飽き足らず、その場にはいない知人友人の情報やどこか遠くで起こった事件のニュースといった刺激物がないと楽しめなくなってきているように感じる。

子どもの人間力を削ぐ可能性のあるのは、おもちゃである。最近、任地では、ナイジェリア方面から入ってきていると思われるおもちゃが多く販売されるようになってきている。ミニカーやアクセサリーから、大きなトラックや飛行機のおもちゃなどが良く目につく。中でも、小学生に大人気なのが、プラスチック製のプロペラおもちゃ(小25フラン、大50フラン)だ。小学校でも街中でも、子どもたちがこのプロペラおもちゃで遊んでいる様子は良く見かける。この様子を見ていて、私は日本の子どもたちが(私の子ども時代も含めて)テレビゲームや携帯ゲーム機(ゲームボーイなど)に夢中になっている姿を連想した。というのも、おそらく、子どもたちは楽しむために次第に強い刺激を求めるようになっている気がするからだ。はじめは、鍋の蓋や捨てられた空き缶や米袋で楽しめていたのが、次第に楽しむためには、簡単なつくりのおもちゃを必要とするようになり、ゆくゆくはもっと緻密で刺激的なゲームが必要となってくるのではないだろうか。おそらく、享楽というものは、一度強い刺激を覚えてしまうと、その強い刺激がなければ楽しめなくなってしまう不可逆的なものなのだろう。きっと、日本の子どもたちに鍋の蓋やプロペラおもちゃを渡してもこっちの子どもたちのように楽しむことは難しいだろうと想像する。

さらに、環境を整備し、物質を豊かにすることで社会が便利になればなるほど、「まぁそんなものか」とうまくいかないことを受け入れる力が低下するのではないかという強い懸念がある。物質文化では、社会システムは極めて円滑に機能していて、生活する上で上手く行かないことは少ない。買いたい物を買うのに他人との余計な関わりはないし、お釣りがないことはありえない。注文したものはすぐに届き、24時間365日開いている店もあって、雨の日も交通機関は動いていて、道路も舗装道路だからぬかるむことはない。私の現在いる社会とは正反対で、すべてが簡単に出来てしまう。

この何の障害もなくスムーズに生活が行えている物質社会において、何か上手く行かないことがあった場合、「まぁそんなものか」と受け入れ、流せる人はどれだけいるだろうか。学生時代に過ごした東京の駅構内や電車、街中では舌打ちをよく耳にした。肩と肩がぶつかったであるとか、切符が改札を通らないとか、他人の話し声がうるさいとか、人が多いとか、とにかく今思えば全然大したことないようなことで人々が苛立っていたことが無数に思い出される。上手く行くことが当たり前になりすぎて、上手く行かないことを受け入れることができなくなってしまうのだろう。


身体の力強さや喜怒哀楽などの表現、物質に頼らずに楽しむ能力、うまくいかないことを受け入れる力…。生身の人間力がすごく高い人々が息づく人間文化である現場の社会。もしこの人間文化が物質文化へ転換してしまったら、私が現在感動して止まない彼らの人間力は減退し、自然環境は元の姿からはかけ離れて人間の都合のいい部分だけ利用され、物質が溢れる代償として狭量な心を生みだし、物質的な豊かさのみが社会の価値を決める社会になってしまうかもしれない、と私は懸念している。物質文化に近づこうとする必死の努力を一旦休め、これまで物質文化の辿って来られなかったような、人間文化の価値観を基盤とした独自の発展に向けて歩みを進めることは出来ないものだろうか。

…このように考えるのは、自らは物質社会であらゆる刺激を一通り味わった先進合理人が、今度は原始的なものに好奇心が向いた結果の、ねじ曲がったエゴであろうか。
posted by 木村だっくす at 17:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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