2014年12月14日

光と闇

田舎の夜はいつも素敵だ。わざとらしく街を煌々と照らす人口的な光はなく、月の仄かで優しい光が大地を照らす。人々の手元にある灯油ランプや懐中電灯は、辺り一面を照らすことはなく、それらは、夜空に点在する星のように、ぽつぽつと見えるのみだ。そうか夜は暗かったんだよな、と当たり前な、しかし多くの近代人たちが忘れてしまったことに気が付かせてくれる。

マンゴーの木や土壁の家、トウモロコシ畑の背後に、黄土色の満月が夜空に浮かび上がる様子は、おそらくこの世で最も美しいものの一つだろう。昼の間、太陽の光に照らされ、全く別々の個々の存在として浮かび上がっていた事物が、夜の闇のなかにあっては全てが溶け合い、全体で一つを形作るようになる。光と明るさが支配していた世界は反転し、闇と影が大地を満たす。満月の照明を背負った事物は、立ちながらにして影となり、色彩豊かな姿から一転、黒一色を全身に纏った姿に変わる。事物から明晰さは失われ、境界が消滅し、輪郭は、もはや個を浮かび上がらせるものではなく、全体を一つに融合する働きを担う。ここでは、あのマンゴーの木も土壁の家もトウモロコシも、藪や土の中で眠り、目を見開き、働いているだろう大小さまざまな動物や虫、微生物も、そして私たち人間も、互いの区別はなくなり、一つの世界を作り上げるために存在しているかのようである。

人は、夜や闇、暗さといったものを、昼や光、明るさのなにかしら否定的な存在として捉えがちだ。しかし、夜空を見上げ、広大な宇宙を想像するとき、光の中に闇が存在するというよりはむしろ、無限にひろがる暗闇の中に光がその存在を置かせてもらっているようにすら思われてくる。ただ、だからといって闇は光を否定せず、光も闇を否定しない。むしろ光の存在を前提に闇が、闇の存在を前提に光が存在しているのである。この大地では、夜は、昼を否定して訪れるものではなく、地球の、自分の立っている部分が太陽の方を向いた時に昼が訪れ、反対側を向けば夜が来るだけの単純なものにすぎない。おそらく、人間は昼を活動時間に選んだために、昼の特徴である光を良いものと捉える傾向にあるのだろうが、夜が活動時間の動物たちにとっては、光と闇に対する感覚は人間とは随分異なることだろう。光が存在しなければ闇は存在せず、闇が存在しなければ光もまた存在しないように、明るさの中でより活動的に生きるものも、闇の中でより活動的に生きるものも、互いの存在を前提にその存在を維持している。両者に優劣はなく、それぞれが個として存在しながら、同時に、全体として一つの世界を形作っているのである。


光と闇の関係を考えるとき、私は、近代西洋文明と非西洋文明の関係を連想せずにはいられない。光が事物を照らし、個々の存在に明晰さを与えるように、近代西洋文明では、あらゆる事物を細分化し、個々の存在が強調される。人間も含め、事物は可能な限り小さな単位に落とし込まれ、その一つ一つに特有の名前がつけられ、理路整然と分類、整理され、論理的な解釈、明確な意味づけが与えられる。あたかも私たちの生活する世界は、その一層は保健の世界であり、他の一層は教育の世界であり、また別の一層は農業の世界であるといったふうに層をなしている世界の一系列かのように捉えられ、世界は、一つの有機的な全体であるよりも、互いに孤立した諸部分の複合体であるかのような様相を呈する。病気は専門の医師によって診断されなければならず、教育は学校で担われ、農業は農家が行わなければならない。人間と自然の間には明確な境界が引かれ、人間と自然とは切り離され、自然は人間が許容する範囲で利用されるにすぎない。また、しばしば個人主義と言われるように、社会生活において、「個」が社会に先立つ基本単位であり、日々の生活がより小さい単位で完結している。近代西洋文明の作り上げてきた社会では、生活の雑事はすべて家庭内で完結し、隣人との協力はほとんど必要でなくなっている。個人でも一定の現金収入を稼げるようになったために、独力で生計を営める個人の数も多い。

他方、非西洋文明、特に私が現在触れているアフリカ文明では事情はだいぶ異なる。意図的か偶然なのかは不明だが、起こっている事象の要素を細分化し、分類して、科学的に全てを解明しようとする姿勢は見られず、社会の中に曖昧さを多く残している。事物の解釈は、それを説明する理論や理屈よりも、経験や言い伝え、または友人、知人などからの伝聞に依ってなされ、原因不明の事態には、科学的な原因究明よりは、神の仕業や呪術といった一般の人間を超越した何かに原因を求めることが多い。現地の人たちが、「神のみぞ知る」と言葉を発するのを聞くと、一般の人間に全てを理解することは困難であることを、ある種のあきらめのような形で、認識しているように思われてくる。世界は、切り取られた部分の集合ではなく、まとまりが有機的に連なることで形作られている。私たちの生きる世界は、農業、教育、保健などの分野ごとに切り取られるのでなく、それぞれの生活に関わる分野が生活に関わる範囲でまとまって意識されている。事物の境界は曖昧なままで、自然と人間を別個の存在として分け隔てる境界も設定されない。人間は自然の一部に否が応でも組み込まれ、時に生活を脅かされながら、偉大な自然の中にひっそりと身を置かせてもらっているかのようである。


夜、人工的な光を照らすとかえって暗くなると感じることがある。月明かりで優しく照らされていた大地も、蛍光灯の強い光が近くにあると、急に暗く思われてくる。逆に、普段、電気で照らされたところで停電がおこると、月の明るさに気が付く。電気の光は、月明かりによって本来は明るいはずの夜ですら暗いものに変えてしまう。

光から見る闇はただの暗闇にしか見えないが、闇の中にいると闇は決して何も見えない真っ黒な世界ではない。近代西洋文明は、その「光」でもって非西洋文明の「闇」を照らすことで、様々な問題を浮かび上がらせ、その解決のために救いの手を差し伸べようとする。近代西洋文明という「光」によって、世界全体を常に「明るい」状態に保とうとする。しかし、昼があって夜があり、光があって闇がある世界が、もし常に昼で、全てが光だったらなんて退屈だろうか。夜の闇の中で、とはいえ完全な暗闇ではなく、月明かりの仄かで優しく、まぶしすぎない灯りに包まれたアフリカ農村部の大地の上で、近代西洋文明と非西洋文明は互いを否定することなく、対等な立場で共存することは出来ないものかと、私は考えを巡らせるのである。
posted by 木村だっくす at 17:18| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
木村くん
お元気?
「西欧」と「非西欧」を光と闇に見立てて対比する形式が一見(あえて?)「西欧的」であるが、
中身の「非西欧」についての考察が豊かで勉強になりました。
イシューを細かく切り分けすぎてもよくないし、そういう思考パターンだけだと、
自然のありがたみや現地社会の社会の仕組みを無視しがちになりそうだよね。
協力隊に行くと、ほんと色々なことが見えてくるんだね。
残りの任期、健康など気を付けて頑張ってきてください!
p.s. 僕は、来年の7月からバングラデシュです!
曽根
Posted by sone at 2014年12月23日 09:52
曽根さん
コメントありがとうございます。
たしかにこの対比は、一見西洋的ですね。気付きませんでした。
現場では、本当いろんな人や価値観と出会い、いろんな考えが巡ります。
ただ、それは協力隊にいくと自動的に見えてくるものではなく、そこで誰と付き合うか、自分がどこに軸足を置くかに左右されると思います。協力隊にきても、(赴任数カ月の僕のように)行政側の人間とだけ付き合っていれば、今回のこの一連の考察のような人や価値観との出会いはないと思います。隊員生活は多様です。現場にはいろんな社会が混在していて、いろんな価値観があって、「協力隊」をひとくくりに捉えることは出来ないかもしれません。
なにはともあれ合格おめでとうございます。すごいですね。僕の出発前に曽根さんが言ってた目標はとりあえず達成ですね!
準備大変だと思いますが、頑張ってください。ここから応援してます。
Posted by 木村だっくす at 2015年01月18日 08:24
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