2015年06月03日

ジグソーパズル

現場に入って活動をしていると、完成図の用意されていない「縁のないジグソーパズル」をしているような感覚を抱くことがある。

現場では、現場の成り立ち方や地域の様子、習慣や文化、歴史などをこちらの分かりやすい形で一挙に教えてくれるような人はおらず、すべて自分で、自分の足で集めていかなければならない。私が常日頃現場で行っている作業は、様々なところに足を運び、様々な人と会話し、様々なことを経験していく中で少しずつ情報を集め、地域の全体像を把握して行くことである。情報は、まるでジグソーパズルのピースのようで、それ一つでは何を意味しているのかわからないことが多い。そのピース(情報)を手にしても、「へー」とか「そうなのか」くらいにしか思わない。しかし、ピースを集め、集めたピースをつなげていくと少しずつ絵が見えてくることがある。この「絵が見える瞬間」が私はたまらなく好きで、絵が見えた時には名状しがたい幸福感に包まれる。「そういうことか!」となるこの瞬間のために村で日々生活していると言っても過言ではない。

一見すると、ピースのひとつひとつは、とるに足らないものに映る場合がある。しかし、いやむしろ、こういう場合にこそ、ピースをはめていく私自身の力量が問われていると思わずにはいられない。「取るに足らない」情報に接したとき、そのピースをどう絵にしていくかは、地域に入っていく者の手腕、切り口が問われているのではないか。一見してたいしたことのないことであっても、見方を変えると興味深い事実に変わることは往々にしてあることだ。

好奇心に際限がないのは人間の(私の?)性なのか、一カ所絵が見えてくると、その隣がどういう絵なのか気になってくる。この絵の横には一体どんな絵が描かれているのだろうか?今度はその絵を明らかにするためのピース集めを始める。ピースが少しずつ集まってくると、「もしかしてこういうことかな?」という仮説が生れる。そして、さらにピースを集めて検証していく。検証の結果、仮説が全く正しくなかったり、まだまだ調べていかないとわからない場合があったり、と中々スムーズには絵は見えてこないが、この失敗もまた私にとっては楽しみに変わる。私の仮説の多くは間違っていることも多く、逆にその分、挑戦しがいがあると思っている。

正しくなかった仮説の例は、村の女性達の出身地に関して情報を集めた時の話。現地社会は男系の血縁家族が中心となるから、男性らの移動に関しては比較的把握が容易だった。例えば、お世話になっている集落は、元々はナイジェリアのOyoが起源で、その後ポベに移り住んだあとに約80~90年前に現在の村へ移動してきている。村長家の集落は、ほぼ同じ時期にサケテ中心部のDéguéからやってきた。しかし、女性らは常に外から嫁いでくるので、みな出身地もばらばらであるし、どこからやってきているのか見当もつかなかった。そこで女性達に出身地を聞いていくと、なんとなく年配の女性は近隣の村出身、若い女性は少し離れた村出身の場合が多いように思われた。そこで、仮説として、「年配の女性らが嫁いできた時期には、道路も今ほど整備されておらず、また交通手段も限られていたことから近隣の村出身が多いが、若い女性らの嫁入りの時分には、道路は既に整備され、またバイクなどの交通手段も普及したことから少し離れた村からも嫁に来ているのではないか」を立てた。この仮説を基に、さらに多くの女性らに話を聞いていくと、年配の女性でも随分と遠くから嫁に来ている人もいれば、若い女性が隣村から嫁いできている場合も多かった。最初に聞いた数人のうちに「年配の女性は近く、若い女性は遠く」という傾向があっただけで、全体でみればそうした傾向は見られなかった。私の立てた仮説は実証されなかった。しかし、私はこうした作業を、仮説を実証するためにしているのではなく、ただ村のことをもっとよく知るためにしているのであるから、こうした失敗も私にとってはとても貴重で、また次の興味深い疑問に繋がっていくのである。「夫との出会いは?」

疑問は、いつまで経っても尽きることがなく、次々に湧いてくる。いや、疑問を一つ解決する度に、またあらたな疑問がたくさん湧いてきてむしろ知りたいことが増えてくる。この意味で、このパズルは永遠に終わらないのではないかと思われる。このパズルには、「縁」がない。

地域の地図という地理的な全体像だけでなく、人間関係、社会構成、歴史、習慣などありとあらゆることがこのパズルには描かれていて、ピースを集めはめていく作業は終わることがない。地域を囲う枠すらないのだから当然かもしれない。行政区分では、ここからここが村でそこから先が別の村、そしてここが市境、県境、国境などと線引きされているが、実際に生活している彼らからしてみれば、そんな線引き一切関係ない。特に、村界隈は出稼ぎも盛んであるし、複数の市場への行き来や他地域に住む親戚との付き合いなど人やモノの動きも盛んで、地理的な境界線はほとんど意味をなさない。このために、隣村にいって始めて意味を理解できる村で見つけたピースもあれば、村とはだいぶ離れた、例えばサケテ中心部での出来事との関連で見えてくる絵もある。どこにでもピースは転がっているし、どこまでもそのピースをつないでいくことが出来る。


「ジグソーパズル」を作っていく中で、情報の価値について考えることがよくある。私が関わっている村に関しては―大抵の場合、他の村もそうだと思うが―、その地域の情報が外にいては入手しづらい。つまり、村に入っていき、一つ一つ自分で情報を集めていかなければならず、また情報は体系化されていないから、様々なソースをあたり、様々な手段で集めていき、組み立てていく他ない。特に、村人にとって当たり前になりすぎている事柄は、彼ら自身も意識せずに行っていることも多いため、単に口頭で質問しただけでは、知りたい情報は手に入れられない。また、村人の間に流れる感覚や雰囲気などは、言語化された情報として得ることは出来ない肌で感じる情報である。このように村の情報は、なかなか入手しづらいが故に、入手するまでにいろんな出会いやストーリーが生じている。そして、こうした情報の背後にある出来事が、このパズルをより貴重な、唯一無二の素晴らしいものにしてくれている。

このパズルは、単に目標物としてのピース(情報)を集め、はめていけば完成するというわけではなく、その情報を集めた背後にある人々との会話や関わり、そこに至るまでの仮説検証や思考の巡り、ためらいや葛藤などを含めて、一つの絵として結晶して行くのである。仮に、私がこれまで明らかにした村の状況、人々の生活、価値観・世界観、彼らの持っている概念、人間関係や村の歴史や発展などについての情報が全く同じ形で記載されたガイドブックが存在するとしても、私が持っている情報は、そのガイドブックよりもはるかに価値のあるものだと自信を持って言いたい。情報の価値は、その情報にだけ宿るのではなく、どのような過程でその情報に辿りついたのかも含めて、一つの価値と私は考えるからである。

この意味で言えば、厳密に同じ価値を持つ情報というのは二つと存在しない。それぞれの情報は、その情報を持つ人との関わり合いの中で、その(付加)価値が見出されるため、似たような情報、表面上は同じ情報はあるにしても、厳密にはそれらの持つ価値は異なると言えるのではないだろうか。昨今は、インターネットが普及して、何かあるとすぐに「情報」検索をする。それは先進国に留まらない、任地サケテの中心部でも似たような光景を身にすることが増えてきた。「情報」にすぐ辿りつけるという意味では非常に便利ではあるが、それを得る過程の人間との関わりやストーリー、思考の巡りなんかが省略されてしまっていて、どうも情報の価値が軽くなっているような印象を抱く。こうして偉そうに書いている私自身もインターネットを利用するので、自分のことを棚に上げるつもりは毛頭ない。ただ、パソコンやスマホに向かって集める「情報」と、現地で実際の人間とのふれあいの中で無我夢中で集めて作り上げていく「情報」とでは、質において全く異なるのだということは常に頭に入れておくつもりである。後者の「情報」は、事実を重んじる立場からみると、不正確で正すべき情報も多々含まれていると思う。しかし、全く正確な人間というものが存在するだろうか?「情報」が事実と照らしてちょっとくらい不正確であっても、それはそれで人間らしくて素晴らしいことなのかもしれない。(もっとも、この「人間らしさ」を、事実をないがしろにすることを正当化するために使うつもりはない。)
posted by 木村だっくす at 06:44| Comment(2) | 活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
情報の質が違うけど、おれ結婚したわ!!
10月10日に披露宴やるけど来る??

Posted by 大和市在住 戸塚 祐太郎 at 2015年08月08日 16:32
コメントありがとう!今見たよ。
来週、会場で会おう!
Posted by 木村だっくす at 2015年10月03日 21:49
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