2015年10月03日

ON/OFF

何か一つのことをやり始めると熱中出来る、熱中してしまって周りが見えなくなるのは私の長所とも短所ともとれる特徴である。短期間で集中して何かの成果を求められる時には、この特徴がプラスに働くことがあるのだが、それ以外の場合ではいかんせん視野が狭くなるのは考えものである。アフリカの現場にいても、「あ、いま熱中しすぎてしまっているな」と感じることがしばしばある。トウモロコシの粒に混ざった豆を取り除く作業、アブラヤシの繊維粕から種を分ける作業、畑での雑草刈り、またノートに向かって見たもの聞いたものや考えを整理している時など、作業にばかり集中して周りの様子を見ていないことが多い。

一方の現地の人たちはどうかというと、作業をしながら、もしくは作業の手を休めて周りの人と話したり、他のことに注意を払ったりすることが多い。私は、現地の人が作業に熱中しすぎて周りが見えなくなる姿を見たことがない。常に肩の力が抜けていて、雑談などをよく挟みながら作業をしている。言うなれば、作業と雑談(休みの時間)とのオン・オフの切り替えがない。常にオンであるし、常にオフでもあるとも言える。

このことは村に限らない。街でも、物売りの女性が、売り場近くで家庭の洗濯をしている姿は良く見るし、寝ているのか起きているのかわからない状態で店番をしている姿も見る。市役所などの行政機関も同様である。オンとオフの狭間で、オンに近づいたり、オフに近づいたりと程度の差はあるが、日本で見るような完全な「仕事モード」は、ここではほとんど見られない。

今年3月、所用で日本に一時帰国したが、そこで感じたのは、仕事が、それを行う個人から切り離されているということである。「仕事モード」で働く彼らは、その個人の性格や価値観、その日の気分からは独立した仕事人となり、働く。その人のプライベート領域と仕事とが切り離されているのだ。マニュアル的とも言えるし、そうであるが故に、その個人は他の個人に取って代わることができる。(この特徴は、特に関東圏に顕著であった。大阪では、仕事と個人との溝は小さいような印象を受けた。)

この点、現地社会ではそのような仕事とそれを行う個人の分離はまずありえず、任地で見るどの人も、働く人とその人自体とは全くの同一人物で、働き方もその日の体調や気分、その人の性格などの影響をかなり強く受けている。仕事を、それを行う個人から切り離すことは考えられない。

彼らは決して意識的に切り替えを曖昧にしているわけではないが、その人個人の生活と作業、仕事との切り替えがはっきりしていないようなやり方は、体力と精神を正常に保つ、現地人なりの無意識のバランス感覚なのだろう。レストランに入った時に、あからさまに機嫌が悪い店員に当たると、「もっとちゃんと働けよ!」と思うこともあるが、それはそれで現地人なりのバランス感覚とも言え、日本では過労死や労働から来る精神的ストレスによって心身ともに疲れている人間が少なからずいることを思うと、この現地人の働き方はたしかに目の前の客にとってはあまり心地の良いものでなくても、働いている人を含めた社会全体の人々の精神衛生を思うとあまり批判することも出来ないのかもしれない。


オンとオフの切り替えがはっきりしていないと言う場合、イベントの開始時間を考えてみるのも良い。先日、大物政治家が登場するイベントが任地の田舎であった際、14時開始のイベントだが、一向に始まらず、結局18時ごろ開始し、18:30に終了した。この例は決して極端な例ではなく、現地社会では、前もって決めた時間通りにことが運んでいるのを見たことがない。イベントが予定時間にオンにならないのである。かといって、他のことが出来るわけでもないからオフでもない。このオンでもオフでもない時間は、一面では非効率に映るだろうが、他面では、そのおかげで人々は「何もしない」時間をきちんと確保できているのではないだろうか。オンでもない、オフでもない、なんでもない、「何もしない」時間である。

こうしたイベント開始までの「何もしない」時間に訪れるほほえましい瞬間がある。何もせずぼうっと待っていると、大音量で音楽を流すスピーカーの前に引き寄せられるように近づいてくる老人がいる。大抵は身なりが汚らしく、少しお酒が入った状態でやってきて、大音量の音楽のリズムに合わせて身体を動かし、ステップを踏む。彼は人目を一切気にしていない。恥ずかしさもなければ、逆に魅せてやろうという気持ちすらない。ただ、そこに音楽が流れていて身体が反応したから踊っているのである。意識的に「踊ろう」と気持ちを切り替えて行っているのではない。彼が行っている行為を言葉で表わすなら「踊り」ということになろうが、彼自身にはもはやその意識すらなく、身体が勝手に反応してしまっているだけに過ぎない。彼の「踊り」が目に入っているであろう、空き時間をもて余して座っているだけの人々も彼に関心をよせないし、かといって迷惑がるわけでもない。そこには、ただ音楽があって、踊る人がいて、関心なさげに座っている人がいるだけである。

日本では「踊る」という行為は何か特別なものとして捉えられがちなように思われ、当たり前のように踊るということが少ないが、現地で「踊り」はもっと身近なものであり、日常生活と踊りとの境界、切り替えが非常に曖昧である。
ふと目をあげると、スピーカーの近くや少し離れたところで、まだ年端もいかない子どもたちもリズムに合わせて身体を動かしている。大人が当たり前のように踊っているのを見ているから、子どもも当たり前のように踊る。老人の場合と同じように「踊っている」という意識すらないような、自然と筋肉が動いてしまっているような動きである。私は、「踊り」として意識された踊りを見るのも好きだが、「踊り」としての意識が出てくる前に音楽に合わせて身体が動き出してしまい、結果的に「踊り」と形容すべき動きになっている踊りを見ると「いいなぁ」と思い、気持ちがほっこりする。日常生活との切り替えが曖昧な、意識される前に身体が動き出す「踊り」は、「何もしない」時間が豊富な切り替えが曖昧な社会の産物のように思える。


他方、先進合理社会では、何かすることに関しては事欠かない。常に何かしていることが出来るし、そういう環境にあって人々は常に何かをしていないといけないという強迫観念すら抱いているような印象を受ける。先のイベント開始を待たされるのが、先進合理国の人々であったなら、すぐにスマホを取りだしてゲームをしたり、友人とラインをしたり、なにかしらのことをするだろう。「ぼけっとして何もしない」をすることが非常に苦手な人たちなのである。(日本に一時帰国した際、電車に乗っているほぼ全員が携帯電話、スマホに向かってなにかしらの作業をしていたのには驚きを禁じ得なかった。老若男女問わず、である。ある種の、とても静かな、狂気のように思えた。)

しかし、なぜ何もしないでいられないのだろうか?その理由の一つは、おそらく「何もしない」を埋めるための物質が溢れていることである。最近のスマホは、アプリがたくさん入っているらしく、それ一台でありとあらゆることができてしまうし、それ以外にもテレビがあり、新聞があり、ゲームがあり、本があり、ギターやピアノなどの楽器があり、パソコンがあり、とにかく「何もしない」を埋めるための物質で社会が埋まっている。そして、それらの物質へのアクセスが容易であるためすぐに利用できる。

また、「何もしない」を難しくしている―常に何かをしていることができる―他の要因は、「物事が前もってきめられた時間通りに進んでいくこと」、すなわち「イベントの切り替えが明確であること」ではないだろうか。あるイベントを行うにしても、だいたいが時間通りの開催であるし、約束事は「時間通り」が基本である。別の見方をすれば、前もって計画を立てやすい、とも言える。だいたい、何時に始まって何時に終わるかが判っているから、イベントとイベントの間を詰めたとしてもどれもこなせてしまう。場所を移動するのでも、電車等の出発時刻から所要時間、到着時刻までほぼ寸分違わずに把握できるし、それを正確に把握するためのツールもある。

(この合理的社会にあって、人は時間を管理していると思っているが、管理されているのはむしろ人間の方なのではないだろうか。前もって決めたシステムや計画に合わせて人間が動いている、いや、動かされているのではないか。目まぐるしいシステムのスピード感に、自分の内なる心のペースはついていくことが出来ているだろうか?自分自身のペースと外界のペースとに大きすぎるギャップはないだろうか?そうしたスピード感をもってなされる一つ一つの行為や出会い、会話は、軽薄なものになってはいないだろうか?)

現地社会では、人間の動きに合わせて人間が動いていて、システムや計画といったものは参考程度の副次的なものに過ぎない。そして、人間の動きなんて、その日の出来事や突然の出会い、他のイベントとの兼ね合いから前もって予想することが出来ないし、各人がそのような把握の難しい動きをしているため、集団で何かしようとする場合、時間を事前に把握することは困難である。何時に始まるかも、どれくらい続くのかも、そもそもちゃんとイベントが行われるのかもわからないから、当然、計画はまともには立てられない。一日に予定を3個も4個も詰めることはできない。そして、このような理由から、現地では、一日の中に隙間がたくさんあるのである。そして、この、オンでもない、オフでもない、「何もしない」隙間の時間があるために、ここの人たちは日々を焦りすぎることなく、無理のないペースで歩んでいるのだと思う。心の時間と外の時間とのギャップが比較的少ないように思うのである。目に見える成果や数字、効果効率を求める立場からは変えなければならぬとされるだろうこの社会のこうした特徴も、私の今の立場から見ると、大切にして無くさないようにしないといけない事柄のように思われてならない。
posted by 木村だっくす at 22:56| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
電車では何もしないのが好きだけど、空き時間を無駄にしてるような、何もしないことへの後ろめたさを感じていました。記事を読んで、何もしないことを肯定的に捉えられたように思います。そう思えるようになって、スマホいじってる人に囲まれてる自分を、可笑しな状況だなと笑いとばせるようになりました。ありがとう。
Posted by 史子 at 2015年10月28日 21:54
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