2014年12月14日

小馬鹿

現地の人々と話すと、特に初めて話す相手や付き合いが浅い相手の場合、小馬鹿にされたような態度を取られることが少なくない。
うすら笑いを浮かべながら、ジロジロこちらを見て、仲間内で私について何か話している。現地語で話しているため会話の内容は分からないが時々エイボと「白人(黒人以外の外国人)」を意味する言葉が聞こえてくるので私について話しているのは明白だ。一通り目の前の白人の噂話が終わったら、次に彼らの口から出てくるのは「何かくれ」という言葉である。その言い方は非常に軽々しく、さきほどのうすら笑いを浮かべながらなので、何かくれという要求も白人を小馬鹿にする一つのやり方なのだろうと想像する。この要求は、半ば冗談、半ば本気な言いぶりで、くれたらラッキーくらいの感覚で話しているものと思われる。この私の目には失礼に見えるこうした現地の人々のコミュニケーションは、ひどく私たち外来者を苛立たせる。外来者の反応は、小馬鹿にした態度に苛立ち怒りだすもの、無視して通り過ぎようとするもの、逆に相手を小馬鹿にするもの、一緒になってふざけ始めるものなどまちまちである。

人を小馬鹿にしたような態度には、赴任から一年経った今でも私は時々苛立ってしまうのだが、最近は、こういう態度は現地人式の一種のコミュニケーション方法なのかもしれないと思うようにもなってきた。小馬鹿にしたり、金くれと言ってみたり、半ば冗談半ば本気の言葉を外来者に投げかけることを通じて、その外来者がどういう人物かを判断しているように思える。真面目すぎる奴か、または一緒にふざけ笑いあえる奴なのか、仲間になりうる奴か、はたまたお金を落としていくだけの奴なのか、そういう判断をしているように思えるのである。実際、現地人同士で会話しているのを見聞きしてみても、相手のことを小馬鹿にすることが多い。数人で一人の人をこれでもかというくらい馬鹿にすることもあれば、お互い馬鹿にしあったりすることもある。また、こうした彼ら流の冗談についていけず、冗談を真に受ける外来者に接した場合、外来者をIl est sérieux. (彼はまじめだ)と言う評価を口にすることもある。このsérieuxは、良いニュアンスではなく、どちらかというと、真面目すぎる、面白みがないという意味を込めたある種の否定的な言葉である。

小馬鹿にした態度は、相手との付き合いの深度によって若干ニュアンスが違ってくることにも気が付いてきた。初めて話す相手、付き合いが浅い相手だと、それこそ「あの外人をからかってやろう」というニュアンスが強いのだが、一緒にいる時間が長くなってくると現地の人同士でふざけあう感覚を私に投げてくる場合が多くなってくる。付き合いが深まり、互いの身の上話からかなり下品な下ネタまで様々な話が出来るようになると、そうした仲間内のコミュニケーションの一部に、小馬鹿にする、というものが位置を占めるようになる。つまり、現地の人々にとって小馬鹿するという行為は、コミュニケーションの一部、言い換えれば、信頼関係を構築するプロセスの一部と捉える事が出来るのではないだろうか。したがって、私たち外部者は、小馬鹿にした態度に苛立ち、彼らと距離を置くのではなく、それも彼らとのコミュニケーションだと考えて積極的に小馬鹿にし合っていけばいいのかもしれない。そう思うようになってきた。

まぁ、そうは言っても、苛立つものは苛立つのであるが。
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時間

昼下がりの村の一角で、乱雑に生えた草木やヤシの木を見て、遠く鳥のさえずりを聞き、さしかけの下で、特に会話をするでもなく現地の人と過ごしていると、ここの時間の流れはゆるやかだなと感じる。カレンダーや時計の文字盤の上に示された日付や時間は、ここでは何ら意味を持たない概念に過ぎないと思われてくる。あたかも普遍的なものであるかのように、世界のいたるところを覆っている日付や時間の支配は、ここには及んでいないようだ。何月何日何時何分というものは、きっとここではほとんど意味はなく、ここに流れているのは、ただ太陽が焼くように大地を照りつけ、風が木の葉や枝、ヤシの大きな切れ切れの葉をゆらしながら通り過ぎ、鶏が雛を数匹つれて小道を横切り、蜥蜴が素早く木を駆け上がる瞬間だけだ。そうした瞬間が、ただ連続して流れている、それがここの時間である。


時間の流れ方、捉え方は人によって異なる。

これはここ数カ月で私が体感的に理解出来たことだ。これまで時間の流れは、時計の文字盤に示されているように24時間という枠で捉える事が出来、万物に共通、常に一定の速度で一直線に一定方向に流れているものだと考えていた。私は、子どもの頃から、カチカチと音がしない、秒針が文字盤をなでるように進む時計が好きで、遊びに行った家や病院、歯医者などでそのような時計があると、じっと眺めては秒針の滑らかな動きを追いかけた。それを見るたびに、時間は一定の速度で流れているんだなと感心したものだ。ベナンに来てからも、初めの頃の私にはアフリカの人々の生活にも時計の示す時間が浸透しているように見え、地球のこんなところでも同じ時間が流れているのかと感心した。ある時、人類の歴史で、現在まで最も影響力を持っているのはだれか、ということを考えたことがあるが、その時の結論は、暦を考えた人と一日を24時間と考えた人であった。理由は、年月日や時間の概念が、日本をはじめとする先進合理社会のみならず、ベナンの人々の生活にまで浸透している点に、時と空間を超えた普遍性を感じたからであった。

数カ月前から、人々の生活を捉えようと、市井に生きる人々と多くの時間を過ごすようになった。協力隊と聞いてイメージするような、いわゆる「活動」とはかけ離れた、人々とただ会話をする、ただ時間を一緒に過ごすということに大部分の時間をかけ始めた。長々と立ち話をし、椅子に一緒になって腰かけて何時間も同じ風景をただ眺め、料理や洗濯の様子を横で静かに観察し、茣蓙で一緒に昼寝をし、畑で種を蒔き、ふざけあって笑う。そんな人々の生活を一緒になってやり、観察し、時には真似ごとのようなことをして時間を過ごしていた。すると、ある時、ふと、日本での生活とはリズムが違うなという感覚を抱いた。日本では、物事が目まぐるしい速度で進んでいて、時間や期限は当然守られるものとして考えられ、短時間である特定の目的を達成する(例えば、電車で目的地に向かう、スーパーで欲しい商品を買う、洗濯機で洗濯する、電子レンジで温めるなど)ように社会は回っている。しかし、私が触れている人々の生活からは、日本で感じたようなリズムより、ずっとゆるやかで無理のないリズムの中で生活しているような印象を受けた。

そんな折に、「生物学的文明論」という本を読む機会があった。これは、生物学の視点から現代(先進国)社会を考察した非常に素晴らしい本なのだが、その中で、動物によって時間の流れ方が違うこと、現代人の時間概念は古典物理学の絶対時間概念が生活の基礎となっていて生物学的時間概念とは異なること、そして物理学の絶対時間概念は、敬虔なキリスト教徒であったニュートンによって、創世記から終末まで一直線に、万物共通で流れる神の時間概念、西洋キリスト教的時間概念が物理学の世界に持ち込まれたことがきっかけであることが述べられている。この生物学的時間概念と古典物理学的な現代人の時間概念に違いがあることを知った時、なるほどそういうことか、と思った。私は、「現代人」の時間概念の中で生活をしていたため、一定の速度で普遍的に時間が流れることを当たり前だと考えていて、ベナン社会でもその時間が当然流れているものだと考えていたが、そもそも時間がみんなにとって同じ速度で流れていると考える点が誤りだったのだ。時間は、万物に共通で、一定の速度で流れているものではない。時間こそは、多様なものなのだ。私が感じたリズムの違いは、この時間の捉え方の違いから生れているのだろう。

この視点を持って人々と接し始めると、社会の時間の流れだけでなく、一人ひとりの時間の流れも違うことがわかってきた。わかってきた、と言っても私がここで言っているのは時間をどう感じるかという感覚のことであるし、また一人ひとりにあなたは時間の流れをどう捉えていますかと聞いたわけでもないので、あくまで人々と接した私個人の感覚でしかないのだが、人によって時間の流れ方が違う、と感じるのである。休み休みゆっくりと洗濯をする母親と何時間も同じところに座っている老人、鍋の蓋を木の棒で転がしながら駆けていく子ども、休暇で実家に戻ってきた大学生の若者とでは、時間の進むリズムが若干異なっている。人の数だけ時間の捉え方がある…!

この人はゆるやかな時間の中で生きているんだな、自分もそのゆるやかな流れに漂ってみよう、と思いながら人々と接するようになると、相手の時間を大切に出来るようになり、また、相手の時間を大切にすることの大切さがわかるようになってきた。そうなると途端に、協力隊の派遣期間や国際協力自体の捉え方も考え直さねばならないと思われ、様々な疑念が湧いてきた。協力隊の2年間という派遣期間は外部者が持ち込んでいる時間概念に他ならないのではないか。私たち協力隊員は、限られた期間で活動をすることが求められ、そして時に「成果」を出そうと焦って活動をしているが、その期間や焦りはあくまで外部者の都合に過ぎず、現地の人々には全く関係のないことなのではないか。現地の人々と私たちの時間概念が異なるのであれば、私たちがすべきなのは私たち「現代人」の時間概念を現地の人々に押し付けることではなく、現地の人々の時間の流れに私たちの方を合わせていくべきではないか…。

国際協力を謳い、現地社会に入り込まんとする私たちは、先進合理社会の様々な概念を身体に浸み込ませているが、それらの概念は、私たちにとっては、あまりにも当たり前のものとなってしまったが故に、自分たちが先進合理社会の概念を纏っているという事実にすら意識を向けないことが多い。そして、私たちにとっての「当たり前」が、あくまで私たちにとっての「当たり前」にすぎないという「当たり前」の事実を意識しない現在の―昔からそうだったのかもしれないが―国際協力は、ともすると、現地の人々の概念の方を、私たち「現代人」の概念に合わせて、均一な概念のもとで世界システムを運営していこうとする、傲慢で偏狭な利己主義に陥った、名ばかりの「協力」に成り下がっていると思わずにはいられない。時間の捉え方は、本来、社会によって、人によって多様であっていいはずなのに、国際協力の名の下に、私たちは先進合理国の「近代的」時間概念を現地社会に押し付けているのではないか。

時間の捉え方、流れ方が人によって異なることを体感的に理解できると、2年間のうちに何か活動をしなくては、と考えること自体がナンセンスなものに思われてくる。「協力」が、ベナン共和国のお偉いさん方のため、もしくは私たち外部者自身のためでなく、現場の人々のために行うものであるならば、私がすべきことは2年間のうちに目ぼしい成果をあげるような「活動」ではないはずだ。「協力」が人々のためのものであるならば、現地の人々の歩みに合わせて、自分も一緒になって歩んでいこうとする姿勢を持つべきなのではないだろうか。「協力」が人々のためならば、他でもなく私の方が人々の時間の流れに合わせる姿勢でもって人々に接して行くべきなのだろう。人々の時間の流れに、私自身の存在を浮かべ、一緒になってゆったりと流れていけたら、それも一つの「協力」と言えるのではないだろうか。
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2014年09月09日

エボラ退避の流れとその時々の思い考え5(退避明け〜最後に)


これまでの記事
エボラ退避の流れとその時々の思い考え1(疑い発生〜コトヌー退避)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え2(ドミ滞在序盤〜中盤)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え3(ドミ滞在終盤)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え4(帰任許可〜帰宅)


8月29日(金)退避が明けて

昨日までの弾んでいた思いとは裏腹に、ゆっくりと動き出す。

ゆっくり動き出す意図があったわけではなく、気がつくと10時近くになっていたのである。昨日までの疲れも影響しているかもしれないが、それよりもサケテの人たちとの関わりが上手くできるか不安だからだと思う。どこ行ってた?どうして?何持ってきてくれた?と間違いなく聞かれるだろうし、それらにどうやって答えようか、んー、ああ答えよう、いやこう答えようと考えているうちにいつの間にか時間が経っていた。

重い腰をあげて、町に出る。いつものルートを、いつもよりたっぷり時間をかけて歩く。家を出てすぐのヤーベジのところ、アイシャ、オモエイボのところでの会話、ヤーショラ、モスケ前でいつもの関わり、市役所の人たちとの会話、ママモヨ家でのゆっくりとした時間。ゆっくり、サケテの人々と接することが出来る幸せをかみしめながら、時間を過ごす。どこに行っても、アラデ!ショウタ!と言ってくれる人たちがいて、改めてサケテにいられる喜びを感じる。

それと同時に、悲しみともとれるような複雑な感情も抱く。俺は、2年間という期間限定でこの町に留まっているだけなんだ、と。町の中に溶け込むために、可能な限り同じ言葉を話し、同じ服を着て、同じ髪型をし、同じように調理や洗濯をし、同じように踊り、同じように会話に時間をかけてきた。でも結局俺は、「帰るべき場所」がある外部者、彼らの長い歴史の中にほんの一瞬だけ顔を出した外国人でしかない。エボラが来ようが来まいが、ここにいなければならない彼らとは対照的に、俺は、何かの危険があったら逃げだす事の出来る存在なんだ。俺は、彼らが辿るべき運命を背負っていない、ただの外部者にすぎない。


最後に

ここベナンでの生活では、日本の生活とは比べ物にならないほど、五感を刺激され、思考を促され、感情を揺さぶられる。幸福な気持ちを感じていた矢先、苛立たされたり、少し沈みかけていると、そんな俺をふっと浮かびあがらせてくれたりする。日本にいるより生身の人間と関わることがはるかに多いここでの生活は、それに伴う喜怒哀楽もそれぞれ強く感じることが多い。決してここはユートピアではないし、ましてや地獄でもない。生身の人間が息づく現実世界である。

喜びや怒り、悲しみや楽しさ、いろんな感情が日々めまぐるしく渦を巻く。しかし、少なくとも今の俺にとっては、そうした喜怒哀楽を、ここの、ベナンの、サケテの人たちに対して感じられていることは幸せなことなのではないか。そう考えている。


きっと今回のエボラ退避は神の仕業に違いない。サケテにいられることをもっと感謝しろよ、サケテの人たちを大切にしろよ、サケテでの生活をもっと大事に過ごせよ、そういうメッセージに違いない。なるほど、ようやくわかった。
Dieu est grand. アッラーアクバル。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。
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2014年09月08日

エボラ退避の流れとその時々の思い考え4(帰任許可〜帰宅)


これまでの記事
エボラ退避の流れとその時々の思い考え1(疑い発生〜コトヌー退避)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え2(ドミ滞在序盤〜中盤)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え3(ドミ滞在終盤)


8月27日(水)午後、JICAから帰任許可が出る。

JICAから今後の対応が発表された。ナイジェリアでのエボラが不特定多数に拡大していないことから、コトヌー退避になっていたウェメ ・プラトー県(ナイジェリアとの国境の県。任地サケテはプラトー県に含まれる。)の隊員および看護師隊員に対し、帰任許可、活動再開許可が下りた。今後、ベナン全土の隊員は、任地の県で疑い患者が発生した場合は任地で自宅待機、陽性が確認された場合はコトヌー退避することとなった。医療機関への立ち入りは一切禁止、不要不急の都市間移動も禁じられた。


待ち望んでいた帰任許可だった。明日にでもサケテに戻ろう。ようやく戻れる。早く戻りたい。そう思うが、同時に、いつのまにか非日常だったコトヌーの生活が日常になりつつあって、サケテが遠く感じ、うまくやれるだろうか、という不安も抱く。チューニングに少し時間はかかりそうだ。


8月28日(木)夜、サケテ到着。

知人の車でポルトノボまで向かい、ポルトノボでお土産としてりんごとパンを買い、乗合タクシーに乗り込む。ドミで始めたギターもしっかり抱える。

すっかり暗くなった20時過ぎ、ようやくサケテに到着した。ずっと帰ってきたかった場所に、ようやく帰ってこられた。夜になっていたからあんまりはっきりは見えなったけど、見慣れた景色をもう一度見ることが出来て、底の方から、嬉しい気持ちが湧きあがってくる。もう戻ってこられないかもしれない、と8日にサケテを発った。20日経ち、忘れないように、と脳裏に焼き付けた景色を再び見た時、安堵感、「ホーム」に帰ってきた感覚を抱き、俺が大事にしたいのはこの景色や人々の醸し出す雰囲気、人との関わりなんだなと改めて認識する。

家では、家族が「おかえり」と嬉しそうに出迎えてくれた。一見怖そうな大家、女性達から子どもまで、大家族のみんなが俺の帰りを喜んでくれている。家の様子は相変わらず。変わってなくて、安心した。あの子がちょっと大人びていて、あの子の身長がすこし伸びたような気がするが、気のせいだろうか。とにかく、戻ってこられて、すごく嬉しい。

当たり前になりすぎていて、ここでの生活の大切さを見失っていた。今回の退避で、その素晴らしさを実感した。これからはこの気持ちを大切にここの人たちとともに生活して行きたい。

ここからがまた新たなスタート。もう一歩踏み出す。村滞在もどんどんしていくし、カウンターパートのおばちゃんの生活にもどんどん関わっていく。もっと住民に近づく。ナゴ語も今のレベルじゃ話にならない。相手の語りを、フランス語を介さず、理解できるようになりたい。
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2014年09月07日

エボラ退避の流れとその時々の思い考え3(ドミ滞在終盤)


これまでの記事
エボラ退避の流れとその時々の思い考え1(疑い発生〜コトヌー退避)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え2(ドミ滞在序盤〜中盤)


8月19日(火)〜26日(火) 自分を制限する牢屋への気付き、脱獄の決意、滞在終盤

ナイジェリアのエボラ状況、6日に最後の新規患者が出て以降、新たな疑い例は見つかっていない。2〜20日とされる潜伏期間を考え、27日にはJICAから今後の対応を発表されることとなった。JICA関係者の口ぶりから、発表より前の段階で、任地に帰れる可能性が高いと想像した。


ドミで生活をし、本を読み、いろんな人と話しをしていく中で見えてきたもの。それは、自分の行動を制限しているのは、外にいる誰かでなくて自分自身である、ということ。自分で自分を架空の牢屋に閉じ込めているのである。結局、決断するのも、行動するのも、自分。やりたいことが出来ないのは、出来ない理由を探す自分がやらないからであって、自分に覚悟と行動力があればやりたいことを出来るはず…

ドミでの生活における現場から離れていく感覚も、自分が生活の仕方を変えればある程度はどうにでもなる。洗濯機が嫌なら自分で手洗いすればいいだけの話だし、レストランなんか行かずに道端のご飯屋さん探して食べれば良いし、ナゴ語が話したければ話せる人を探せばいい。すこしずつ行動制限が解けてきて、街に出てもいいことになっているのだから、ドミに留まっているのは、自分の選択でしかない。だったら、自分の選択を変えれば良いだけの話。

任地サケテでの生活では、村に少し滞在したいな、という気持ちが芽生えていたものの、一度も泊まったことはなかった。その一歩を踏み出せなかったのは、サケテの家に一緒に住む大家に夜帰ってくるように言われていたことや、配属先の視学官事務所にも、なんとなく毎日顔を出さないといけない気がしていたからだった。たしかに、いろんな人の意見はあるだろうが、そうした「制限(と思われるもの)」も、結局は、そうしなきゃいけない、と自分で思っているから、その「制限」内で行動しているだけなのではないか?結局、自分の行動を制限しているのは自分自身ではないのか?今の「制限」された行動は、結局、自分自身の選択の結果でしかないのではないか?


読書に耽ったり、映画鑑賞したり、久石譲のジブリ25周年コンサートDVD見たり、フランス語を勉強したり、だらだらしてくっちゃべったり、ギター始めてみたり、ビリーズブートキャンプやったり、語ったり、スキンヘッドにしたり、と任地で生活していると中々出来ないことをいくつかやれて、ドミでの生活はそれなりに有意義であった。だからもうドミに未練はない。任地に帰ったら、もう一歩踏み出そう。自分自身を閉じ込めていた牢屋から飛び出し、村の中に、人の中にどんどん入って、人々の生活を捉えよう。自分を縛る架空の牢屋からの脱獄を決意する。
posted by 木村だっくす at 05:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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