2014年05月13日

現場の目線、お金貰いすぎ、それでも

現場の目線、というものを強く意識して最近過ごしている。

住民が座っている横に一緒に座って通りを眺めたり、子どもたちが座っている席の隣に腰掛けて授業を見学したり、村人たちが座るゴザの上に一緒に座ったり。(なんか座ってばっかだ)

とにかく、現場の人たちが何をどのように見て、どう感じているのか、それを少しでも分かりたくて同じ目線というのを心がけている。想像するだけでなくて、実際に同じところに座ってみている。

座ってみると、「通りはこういう風に見えるのか」と、普段歩いている通りであっても見え方が違ってきて面白い。


ただ、こちらがいくら同じを意識しようとも、実際に同じ目線に立つことは難しい。というかほぼ不可能なのじゃないかと思える。

肌の色の違い、言葉の違い、歩き方、振る舞いの違い、いろいろと違いがあるせいもあるが、もっとも大きい(と今感じている)のは収入の違い。

青年海外協力隊は、「ボランティア」と称するものの、「手当」(現地の人たちから見れば、これは「給料」)が支払われている。任地の口座に振り込まれる手当(以下、海外手当)と日本国内に支払われる手当(以下、国内手当)の二種類を受け取る。その他あるが、ここでは簡略に二種類で。
この支払われる額、現地の水準からするとかんなり高給である。

現場の教員と比較した場合、僕の受け取る海外給料は、教員5人分の給料とほぼ一緒。

しかも彼らは、すくない給料の中から家賃、光熱費、ガソリン代、そして食費を支出している。(ベナンの人たちの足はバイク。しかも燃費悪いらしいのでガソリンを結構食うとか。給料の5分の1はガソリンに消える。)これらに加え、子ども(多くの先生が既婚、子ども平均3人ほど)の養育費、家族が病気になれば治療費がかかる。

一方の僕は、家賃はベナン政府から支払われているし、バイク・車に乗らない(乗らなければ仕事が出来ないという状況にない)からガソリン代もかからない。養うべき家族もいないし、病気になっても治療費は保険が下りるから自分では支払わない。払っているのは光熱費と食費くらいなものである。

手元に残る額を比べたらとてつもない差である。彼らはほぼゼロ、僕の銀行口座の残高は膨らむ一方である。

国内手当を含まずにこの差である。国内手当を入れたら、お偉い校長(定年間際)のお給料の2倍近く貰っている。


要するに、圧倒的に僕たちは貰いすぎている。


現場の目線を意識して、彼らの目線と同じ高さでものを見ようとしてみるものの、収入の違いによって超えられない何かを感じてしまう。

「彼らは何をどう感じているのだろう」「現場の目線」
思いを巡らせるが、実際にその立場にない僕は、体感として分からない部分が大きい。

現場の目線に立つって難しい。



それでも、わかろうとする努力だけは続けていきたい。確かに収入は大きく違うけど、ほかの部分は近付けることが出来るのだから。同じところに座って、同じ通りを眺めて、同じものを食べて。

とにかく、こちらが近付く努力を続ける。
相手にとって収入の違いが気にならない(違いがあることはわかっているけど、それをなしにしても付き合いたいと思ってもらえる)くらいになりたい。

出来るだけ、現地の人たちと、同じ目線で、生活と活動をしていこう。
posted by 木村だっくす at 07:39| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月10日

真っ裸

24歳

日本人



上智大学卒

名古屋大学大学院生

JICAボランティア

サケテ視学官事務所配属

白人

金持ち


これらの肩書をそぎ落としたとき、僕は誰なんだろうか。

真っ裸の僕は、どんな人間なのだろうか。

真っ裸の僕は、ベナンの人たちからどのように映るのだろうか。



「年齢ではなく、国籍ではなく、職歴ではなく、学歴ではなく、所属ではなく、スキルではなく、お金ではなく、あなたは誰ですか」

これは尊敬する調整員から新隊員に向けた問いかけ。



僕はどんな人間なのだろう。


肩書きをすべてそぎ落としても、
自信を持って自分という人間を見せられるような人でありたい。

逆にこちらも、相手の肩書きでなく、真っ裸の人間とまっすぐ向かい合い、関係を深めていきたい。


ちょっと遅いけど、2014年のテーマにしようと思う。「真っ裸」
posted by 木村だっくす at 06:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月16日

「何故」という問いについて考えている。

「何故」という問いについて考えている。(超長文です。流し読み推奨。)
「何故」という問いは、説得的な答えを持っていないものに対しては、非常に強烈で、暴力的である。

「何故」は、投げかける人にとって非常に簡単で手間のかからない、楽な質問である。「何故」の一言で、相手からいろいろなことを聞き出せるから。「何故」は、質問者にとっては、挑戦でも挑発でも暴力でもない、ただの好奇心から発せられる問いであることが多いと思う。

しかしながら、この「何故」という問いは、その質問を受けとる側にとっては、攻撃的に映ることも少なくない。質問者の「何故」という一言によって、「何故」を受け取った側は、あれこれと理由を述べ、質問者を納得させることが暗に求められる。質問者の好奇心を満たす、と言ってもいいかもしれない。

質問する側は「何故」という一言であるのに対して、答える側は多くの言葉を並び立てなければならない。「何故」の問いかけが一方通行である場合には、釣り合いのとれない会話となる。


「何故」との出会い
以前アメリカに留学していた時のこと。親しい友人のなかにヨーロッパからの留学生が多くいた。彼らは、よく「何故」を問いかけた。当時の僕にとって、この「何故」に答えることはとても辛い作業であった。そのため、多くの場合、「特に意味はない」と答えていた。

一つには、頭の中でふわふわしている理由を彼らに話したところで彼らを納得させられるか自信がなかったためで、もうひとつには語学力の問題で自分の考えを上手く英語に変換する自信がなかったためである。いずれにせよ、「意味はない」との返答に対して、彼らは決まって納得のいかない顔をした。

だから、僕はこの「何故」を問いかけられた時、なんだかあまり良い気持ちがしなかった。というより、「何故」は僕にとっては非常に不快であって、暴力的に映った。そんな僕の気持ちも表明しないから相手にはわかってもらえず、その後も「何故」の問いかけが止まることはなかった。

しかし、人間にはそれなりに適応能力があるらしい。「意味はない」と答えると怪訝そうな顔をされることがわかると、次第にその場で思いついた口から出まかせの理由を語るようになった。出てきた理由があまりにも適当に選ばれた言葉である場合には、さらに「何故」を繰り返され、かえって自分の立場を悪くすることもあったが、答え方に慣れてくると(コツをつかむと、と言ってもいいかもしれない)、僕の適当な答えにも納得してくれる人も増えてきた。少なくとも僕にはそう映った。

僕が答える「理由」は、口から出まかせ、良く言っても喉から出まかせ程度の浅い理由であった。「理由」は。その場の思いつきに過ぎないものであったが、「何故」を切り抜けることが出来るようにはなった。「何故」への耐性が身に付いた。


「何故」耐性の活躍
「何故」耐性は、大学院時代にはよく活躍した(「大学院時代」と言っても、協力隊に来る関係で3カ月しかなかったが)。僕の通った大学院は日本にあったが、国際的であり、7割以上は留学生という日本では比較的珍しい環境であった。アジア圏からの留学生が多かったが、なぜか南米からの留学生も多かった。僕がたまたま選んだ研究室のある三階には南米出身のものが多く、ラウンジではスペイン語が飛び交う光景は珍しくなかった。そんな彼らと僕はすぐに打ち解け、仲良くなった。

彼らとの会話では、「何故」のやりとりが頻繁に行われた。彼らの問いの立て方などは、なんとなくだが、アメリカ留学中に出会ったヨーロッパ人留学生たちと似ていたような気がした。この時には「何故」耐性がそれなりに形になっていたようだ。かれらの「何故」にたいして、さほど苦労なく答えられたし、相手も僕の答えに納得しているようであった。この時点では、以前感じたような不快感は抱かなくなっていた。

「何故」の問いが普通になってくると、次第に自分の口からも「何故」という問いを発するようになっていった。「何故」を中心とした会話は、理論的なように思えたし、何よりそれを通じて留学生らと同じ土俵で話が出来る「国際的」な人になった気がした。

「今後国際的に何かをするかもしれない。今後も何故の問いかけはつづけよう。」そう思っていた。僕は、こんなタイミングでベナンに来た。


「お金くれ」
ベナンでは、僕を見かけると、条件反射的に「エイボ」と声をかけてくることは前回記事にした通りである。人によっては、二言目で「お金くれ!」と言ってくる。「エイボ!」と言う人の一割から二割程度の人たちが、お金を要求してくる。「エイボ」と呼ばれ続けることにも苛立ちを覚えたが、「お金くれ」にはもう少し苛立つ。

ベナンの社会は一見すると「貧困」には見えず、人々に生活の困窮感はない。人々は、ゆっくりとそれぞれの時間を生きているような印象を受ける。ここでの「お金くれ」は、アジア諸国で見るような切迫感の伴ったものではない。一言でいえば、「軽い」、あまりにも軽い。

ベナン人によると、この「お金くれ」は単なる冗談にすぎないから簡単に聞き流していればいいということだ。そんなものか、と思って聞き流すことにした。いや、聞き流す努力を始めた。

しかし、この簡単に聞き流すという作業、頭で理解するのと、実際に行動すること、自分の心の動きが全く異なることを実感させられる。頭では、簡単な冗談だから、とわかっていても、心ではどうしても苛立ってしまうことも多い。特に自分があまり良い状態でない時、疲れていたり、何かのストレスを感じていたりする時になると、この「簡単に聞き流す」は難しくなる。

「何故、おれに金を求めんだ。」
少し前に、たしかあれは水曜日だったように思うが、いつも行っている市役所の前で友人らと昼ごはんを食べていた。日差しが強烈で、気温も高い1時ごろだった。その日の料理は何故かいつもよりピーマン(唐辛子の一種)が多く入っており、辛かった。そんなところに35歳くらいと思われる男が市役所に向かってきた。そして、僕を見つけるなり、「お金をくれ。腹減ってるんだ」と言ってきた。この男の言い方も例に漏れず、軽いものであった。

午前中の活動の疲れ、暑さ、なぜかいつもより辛い食事。いろいろなことが重なって、僕は苛立ってしまい「簡単に聞き流す」ことが出来なかった。勢い余って、「お前誰だよ。何で俺が知らないやつにお金をあげなきゃいけないんだ。」と言った。勢いで発言してしまう自分が嫌だが、この時もまたその嫌な自分が出た。

ほどなくしてその男に再会した。それまで会ったことがあるようには思えなかったが、その男は市役所で働いている人であった。「市役所の人だったのか。まずい言い方してしまったな」と数時間前の発言を後悔した。そして、何事もなかったかのように、他の人に対してと同様に、その男にも挨拶に行った。

僕「ボンソワー、ムッシュー。」

男「(むすっとした顔で)お前はさっき俺のこと知らない、と言っただろ。俺に挨拶しないでくれ」

僕「はーなんだよそれ。それはお前が失礼にもいきなり『お金くれ』と言ってきたからじゃないか。ていうか何故金くれっていうんだ。何故、俺に金を求めるんだ。何故そんなこと聞くんだ。何故だ!」

これまでいろいろな人から言われてきた「お金くれ」によって自分の中に溜まっていたストレスをその男にぶつける形となった。二人の間には、気まずい空気が流れた。


何故って言われても意味はない
この件について友人のアーメルに相談した。ベナン人はなぜすぐに「お金くれ」と言うのか。彼は、それは冗談だと言った。
冗談ならもっと面白いことを言ってくれと思ったが、そんな思いをよそに彼は続けた。

「別に意味なんてないんだ。それは冗談なんだ。だから「何故」と聞かれても理由はない。俺達は、ただそれを言って楽しんでいるだけなんだから。いつも理由を求めるのは欧米人のやることだろう。俺たちは大した理由もなくお金くれというし、深い理由のない質問をしたりする。だから何故と聞かれても困るし、何故という問いはここではあまり大きな意味はない。」


僕はアメリカで「何故」のシャワーを浴び、「何故」耐性を身に付けた。「何故」に答えられて「何故」を問いかけられるようになると自分は「国際的」な社会で生きていけるように成長したんだなと思った。「何故」耐性は、南米出身の人たちとの会話でも役に立ったので、きっとアフリカでも役に立つだろうと考えていた。

たしかにこれまで経験してきた「国際的」な社会においては、「何故」のやりとりは重要であるように思えた。しかし、この「国際的」という時、それが意味しているのは「欧米」のことではないだろうか。そう思えてきた。「何故」に耐えられることが「国際的」である条件の一つのように思っていたが、それは「欧米的」であるための条件かもしれない。
僕は、知らず知らずのうちに欧米の価値観に染まっていたのではないだろうか。

理由を求めることが正しいと(無意識に)思っていた。ここではそれは違う。
僕がここの人たちのちょっとした発言に、「何故」を強く問いかければ、きっと彼らは、僕がかつて感じたような気まずさや不快感を抱き、僕の問いかけを攻撃的と捉えるだろう。「何故」の問いはここでは意味をなさない。

質問したものを納得させるような答えを持っていない者に対しては、「何故」という強烈な問いは、暴力と呼べるほど攻撃的なものであるように思える。


前回「エイボ!」について書いた。
最近、「エイボ(白人)」と呼ばれたら「オニヤドゥドゥ(黒人)」と呼ぶことにしている。そうすると、たまに普通にouiと言ってくる子がいる。
なんだ。「エイボ」ってのもただの呼びかけじゃないか。大した意味はないんだな。

今日も「お金くれ」と言われた。500フランくれと言われたから、1000フランくれたら500フランあげると答えた。適当に会話したら、彼は去っていった。
結局「金くれ」も口だけで、本当に欲しいわけじゃない。その発言に大きな意味はないんだ。そのやりとりを楽しめばそれでおっけーなんだ。

そう考えると苛立ちが少なくなってきた。気持ちが楽になってきた。

たわいのないやりとりに「何故」はいらないのだと思う。


読んでくださった方、ありがとうございました。
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posted by 木村だっくす at 07:37| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月07日

「エイボ!」に苛立つ

ナゴ語では、黒人以外のことを「エイボ」という。「白人」という意味だ。

シャイとは程遠いここの住民は、僕を見つけるや否や、「エイボ!」と声をかけてくる。老若男女問わず、である。

なかでも子どもは、エイボに大変興味があるらしく、見つけると遠くからでも大声で叫ぶ子どももいる。こちらの反応が返ってくるまで永遠と「エイボ!」「エイボ!」と繰り返す子どもも少なくない。

この街には、僕の他にエイボはほとんどいない。先日、糖尿病の対策で来ているというフランス人二人に会ったが、彼ら以外にはエイボに見かけていない。実際、彼らとも一度しか会ったことないし、街を歩いていても見かけないので、僕の生きている世界ではエイボは僕一人である。

身体の構造上、鏡を介さずに自分で自分のことを見ることが出来ないので、僕の視界に入るのは黒人(オニヤドゥドゥ)だけである。この景色に慣れてくると、ありえないと思うかもしれないが、自分も黒人になった気分、この社会にすっかり馴染んでいるのではないかという錯覚を起こす。

しかし、実際のところ、まったくなじんでいない。以前「肌の色の違いが目立つ」と書いたように、肌の色の違いは非常に目立つ。何カ月滞在しようがそれは関係なく、黒人のなかに「白人」は全く溶け込まない。

そうなるとサケテ「唯一」(自分の目では他のエイボを見ないから、この際「唯一」と言わせていただきたい)の「白人」の僕は、一挙手一投足が注目されることになる。紅一点ならぬ白一点である。歩けば、エイボエイボと声をかけられ、買い物しても人が寄ってくるし、学校にいけば子どもたちは興奮して大変な騒ぎである。

サケテに来た当初は、こうして「エイボ、エイボ」と話しかけられることも、「あぁ、なんだかいいものだなぁ」と思っていたが、時間が経つとそうした感情にも変化が出てくる。

最近は、子どもが止むことなくエイボエイボと話しかけてくることに苛立ちを覚えるようになってきた。誤解がないように言うと、その時の気分によっては苛立つことも出てきた。

僕は気分屋だから感情の波が非常に激しい。上がっている時は誰とでも仲良く話せる気分になるが、逆に下がっているときは周囲を完全にシャットアウトして自分の殻に閉じこもりたい。

しかし、「白一点」のサケテ社会において、唯一の「白人」の僕が周囲をシャットアウトできるはずはなく、こちらの機嫌にはお構いなくエイボ!エイボ!と話しかけてくるのである。

一応、「今は機嫌悪いモードなので話しかけないでね」と顔に書きはしないものの、そういうオーラを出して「近づかないでくださいね」というメッセージは出すのだが、受け取る人は一人としていない。容赦なく「エイボ!」「エイボ!」である。

僕の苛立ちがもっともピークに達するのはこういう時である。きっと、この時、不快を示す脳内のなんとか波は一気に放出されていることと思う。正直言って、子どもたちを蹴り飛ばしたくなる。



ベナンでの生活は、現在2カ月が経過したところである。すべてが素晴らしく見える最初の期間を超え、現在は嫌なところにも気付き始めている時期なのだろう。

今はこのように自分の苛立ちの原因を分析してなんとか苛立ちを抑えようとしている。

しかし、苛立つ自分の心の狭さにも苛立ちを覚えるため、何か苛立ちそのものの原因を除去する良い手段はないものだろうか。

「エイボ」というのは、実は「かっこいい」という意味だと解釈をして、街中いたるところで「かっこいい!かっこいい!」と言われていると思えば良いんだ、と思って現在実行中であるが今のところ効果はなさそうである。

なにかいいアイディアがあったら教えていただきたい。

そんなこんなの苛立ちの記録。記念に残しておこう。


お読みいただきありがとうございました。
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posted by 木村だっくす at 08:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月01日

一カ月経って気付いたこと(羅列)

赴任から約1カ月が経ったということで、
これまでに気がついたことを箇条書きにして羅列してみます。

・昼の日差しは異様に強い。
・昼寝必須。
・自分の(体力の)限界を把握しておくべきである。
・でないと体調崩す(昨日崩した)。

・CP(教育指導主事)は学校保健活動への関心が薄い。
・C/CS(視学官)は教育への想いが強い。

・形式主義(やたらと形にこだわる)。
・権威主義。

・きれい好き。特に掃き掃除。
・良く笑う。
・現地語が大変喜ばれる。

・若い校長が多い。
・子どもが多い。
・先生が少ない。
・学校は子どもよりも先生中心
・先生は子どもを叩くための木の棒を常に持っている。

・子どもはシャイとは程遠い。
・「お金頂戴」ってよく言われる。
・かなり軽々しく言う。
・逆に「お金頂戴」って言うと黙る。
・子どもパン持っている時に、「パン頂戴」って言うと本当にくれる。

・黒人女性は美しい。
・かわいい系もいる。

・挨拶が盛ん(特に電話)。
・しばらく電話しないと怒られる。

・待っていても何も起こらない。
・動くと何か起こる。

・今のところ、この社会、僕に合ってる。


以上です。
詳しい内容は、今度書きます。
と言いたいところですが、書けないかもしれません。時間と体力が許した時に書きます。

手抜き記事ですいませんでした。お読みいただきありがとうございました。
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posted by 木村だっくす at 06:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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