2014年12月14日

時間

昼下がりの村の一角で、乱雑に生えた草木やヤシの木を見て、遠く鳥のさえずりを聞き、さしかけの下で、特に会話をするでもなく現地の人と過ごしていると、ここの時間の流れはゆるやかだなと感じる。カレンダーや時計の文字盤の上に示された日付や時間は、ここでは何ら意味を持たない概念に過ぎないと思われてくる。あたかも普遍的なものであるかのように、世界のいたるところを覆っている日付や時間の支配は、ここには及んでいないようだ。何月何日何時何分というものは、きっとここではほとんど意味はなく、ここに流れているのは、ただ太陽が焼くように大地を照りつけ、風が木の葉や枝、ヤシの大きな切れ切れの葉をゆらしながら通り過ぎ、鶏が雛を数匹つれて小道を横切り、蜥蜴が素早く木を駆け上がる瞬間だけだ。そうした瞬間が、ただ連続して流れている、それがここの時間である。


時間の流れ方、捉え方は人によって異なる。

これはここ数カ月で私が体感的に理解出来たことだ。これまで時間の流れは、時計の文字盤に示されているように24時間という枠で捉える事が出来、万物に共通、常に一定の速度で一直線に一定方向に流れているものだと考えていた。私は、子どもの頃から、カチカチと音がしない、秒針が文字盤をなでるように進む時計が好きで、遊びに行った家や病院、歯医者などでそのような時計があると、じっと眺めては秒針の滑らかな動きを追いかけた。それを見るたびに、時間は一定の速度で流れているんだなと感心したものだ。ベナンに来てからも、初めの頃の私にはアフリカの人々の生活にも時計の示す時間が浸透しているように見え、地球のこんなところでも同じ時間が流れているのかと感心した。ある時、人類の歴史で、現在まで最も影響力を持っているのはだれか、ということを考えたことがあるが、その時の結論は、暦を考えた人と一日を24時間と考えた人であった。理由は、年月日や時間の概念が、日本をはじめとする先進合理社会のみならず、ベナンの人々の生活にまで浸透している点に、時と空間を超えた普遍性を感じたからであった。

数カ月前から、人々の生活を捉えようと、市井に生きる人々と多くの時間を過ごすようになった。協力隊と聞いてイメージするような、いわゆる「活動」とはかけ離れた、人々とただ会話をする、ただ時間を一緒に過ごすということに大部分の時間をかけ始めた。長々と立ち話をし、椅子に一緒になって腰かけて何時間も同じ風景をただ眺め、料理や洗濯の様子を横で静かに観察し、茣蓙で一緒に昼寝をし、畑で種を蒔き、ふざけあって笑う。そんな人々の生活を一緒になってやり、観察し、時には真似ごとのようなことをして時間を過ごしていた。すると、ある時、ふと、日本での生活とはリズムが違うなという感覚を抱いた。日本では、物事が目まぐるしい速度で進んでいて、時間や期限は当然守られるものとして考えられ、短時間である特定の目的を達成する(例えば、電車で目的地に向かう、スーパーで欲しい商品を買う、洗濯機で洗濯する、電子レンジで温めるなど)ように社会は回っている。しかし、私が触れている人々の生活からは、日本で感じたようなリズムより、ずっとゆるやかで無理のないリズムの中で生活しているような印象を受けた。

そんな折に、「生物学的文明論」という本を読む機会があった。これは、生物学の視点から現代(先進国)社会を考察した非常に素晴らしい本なのだが、その中で、動物によって時間の流れ方が違うこと、現代人の時間概念は古典物理学の絶対時間概念が生活の基礎となっていて生物学的時間概念とは異なること、そして物理学の絶対時間概念は、敬虔なキリスト教徒であったニュートンによって、創世記から終末まで一直線に、万物共通で流れる神の時間概念、西洋キリスト教的時間概念が物理学の世界に持ち込まれたことがきっかけであることが述べられている。この生物学的時間概念と古典物理学的な現代人の時間概念に違いがあることを知った時、なるほどそういうことか、と思った。私は、「現代人」の時間概念の中で生活をしていたため、一定の速度で普遍的に時間が流れることを当たり前だと考えていて、ベナン社会でもその時間が当然流れているものだと考えていたが、そもそも時間がみんなにとって同じ速度で流れていると考える点が誤りだったのだ。時間は、万物に共通で、一定の速度で流れているものではない。時間こそは、多様なものなのだ。私が感じたリズムの違いは、この時間の捉え方の違いから生れているのだろう。

この視点を持って人々と接し始めると、社会の時間の流れだけでなく、一人ひとりの時間の流れも違うことがわかってきた。わかってきた、と言っても私がここで言っているのは時間をどう感じるかという感覚のことであるし、また一人ひとりにあなたは時間の流れをどう捉えていますかと聞いたわけでもないので、あくまで人々と接した私個人の感覚でしかないのだが、人によって時間の流れ方が違う、と感じるのである。休み休みゆっくりと洗濯をする母親と何時間も同じところに座っている老人、鍋の蓋を木の棒で転がしながら駆けていく子ども、休暇で実家に戻ってきた大学生の若者とでは、時間の進むリズムが若干異なっている。人の数だけ時間の捉え方がある…!

この人はゆるやかな時間の中で生きているんだな、自分もそのゆるやかな流れに漂ってみよう、と思いながら人々と接するようになると、相手の時間を大切に出来るようになり、また、相手の時間を大切にすることの大切さがわかるようになってきた。そうなると途端に、協力隊の派遣期間や国際協力自体の捉え方も考え直さねばならないと思われ、様々な疑念が湧いてきた。協力隊の2年間という派遣期間は外部者が持ち込んでいる時間概念に他ならないのではないか。私たち協力隊員は、限られた期間で活動をすることが求められ、そして時に「成果」を出そうと焦って活動をしているが、その期間や焦りはあくまで外部者の都合に過ぎず、現地の人々には全く関係のないことなのではないか。現地の人々と私たちの時間概念が異なるのであれば、私たちがすべきなのは私たち「現代人」の時間概念を現地の人々に押し付けることではなく、現地の人々の時間の流れに私たちの方を合わせていくべきではないか…。

国際協力を謳い、現地社会に入り込まんとする私たちは、先進合理社会の様々な概念を身体に浸み込ませているが、それらの概念は、私たちにとっては、あまりにも当たり前のものとなってしまったが故に、自分たちが先進合理社会の概念を纏っているという事実にすら意識を向けないことが多い。そして、私たちにとっての「当たり前」が、あくまで私たちにとっての「当たり前」にすぎないという「当たり前」の事実を意識しない現在の―昔からそうだったのかもしれないが―国際協力は、ともすると、現地の人々の概念の方を、私たち「現代人」の概念に合わせて、均一な概念のもとで世界システムを運営していこうとする、傲慢で偏狭な利己主義に陥った、名ばかりの「協力」に成り下がっていると思わずにはいられない。時間の捉え方は、本来、社会によって、人によって多様であっていいはずなのに、国際協力の名の下に、私たちは先進合理国の「近代的」時間概念を現地社会に押し付けているのではないか。

時間の捉え方、流れ方が人によって異なることを体感的に理解できると、2年間のうちに何か活動をしなくては、と考えること自体がナンセンスなものに思われてくる。「協力」が、ベナン共和国のお偉いさん方のため、もしくは私たち外部者自身のためでなく、現場の人々のために行うものであるならば、私がすべきことは2年間のうちに目ぼしい成果をあげるような「活動」ではないはずだ。「協力」が人々のためのものであるならば、現地の人々の歩みに合わせて、自分も一緒になって歩んでいこうとする姿勢を持つべきなのではないだろうか。「協力」が人々のためならば、他でもなく私の方が人々の時間の流れに合わせる姿勢でもって人々に接して行くべきなのだろう。人々の時間の流れに、私自身の存在を浮かべ、一緒になってゆったりと流れていけたら、それも一つの「協力」と言えるのではないだろうか。
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2014年09月09日

エボラ退避の流れとその時々の思い考え5(退避明け〜最後に)


これまでの記事
エボラ退避の流れとその時々の思い考え1(疑い発生〜コトヌー退避)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え2(ドミ滞在序盤〜中盤)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え3(ドミ滞在終盤)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え4(帰任許可〜帰宅)


8月29日(金)退避が明けて

昨日までの弾んでいた思いとは裏腹に、ゆっくりと動き出す。

ゆっくり動き出す意図があったわけではなく、気がつくと10時近くになっていたのである。昨日までの疲れも影響しているかもしれないが、それよりもサケテの人たちとの関わりが上手くできるか不安だからだと思う。どこ行ってた?どうして?何持ってきてくれた?と間違いなく聞かれるだろうし、それらにどうやって答えようか、んー、ああ答えよう、いやこう答えようと考えているうちにいつの間にか時間が経っていた。

重い腰をあげて、町に出る。いつものルートを、いつもよりたっぷり時間をかけて歩く。家を出てすぐのヤーベジのところ、アイシャ、オモエイボのところでの会話、ヤーショラ、モスケ前でいつもの関わり、市役所の人たちとの会話、ママモヨ家でのゆっくりとした時間。ゆっくり、サケテの人々と接することが出来る幸せをかみしめながら、時間を過ごす。どこに行っても、アラデ!ショウタ!と言ってくれる人たちがいて、改めてサケテにいられる喜びを感じる。

それと同時に、悲しみともとれるような複雑な感情も抱く。俺は、2年間という期間限定でこの町に留まっているだけなんだ、と。町の中に溶け込むために、可能な限り同じ言葉を話し、同じ服を着て、同じ髪型をし、同じように調理や洗濯をし、同じように踊り、同じように会話に時間をかけてきた。でも結局俺は、「帰るべき場所」がある外部者、彼らの長い歴史の中にほんの一瞬だけ顔を出した外国人でしかない。エボラが来ようが来まいが、ここにいなければならない彼らとは対照的に、俺は、何かの危険があったら逃げだす事の出来る存在なんだ。俺は、彼らが辿るべき運命を背負っていない、ただの外部者にすぎない。


最後に

ここベナンでの生活では、日本の生活とは比べ物にならないほど、五感を刺激され、思考を促され、感情を揺さぶられる。幸福な気持ちを感じていた矢先、苛立たされたり、少し沈みかけていると、そんな俺をふっと浮かびあがらせてくれたりする。日本にいるより生身の人間と関わることがはるかに多いここでの生活は、それに伴う喜怒哀楽もそれぞれ強く感じることが多い。決してここはユートピアではないし、ましてや地獄でもない。生身の人間が息づく現実世界である。

喜びや怒り、悲しみや楽しさ、いろんな感情が日々めまぐるしく渦を巻く。しかし、少なくとも今の俺にとっては、そうした喜怒哀楽を、ここの、ベナンの、サケテの人たちに対して感じられていることは幸せなことなのではないか。そう考えている。


きっと今回のエボラ退避は神の仕業に違いない。サケテにいられることをもっと感謝しろよ、サケテの人たちを大切にしろよ、サケテでの生活をもっと大事に過ごせよ、そういうメッセージに違いない。なるほど、ようやくわかった。
Dieu est grand. アッラーアクバル。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。
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2014年09月08日

エボラ退避の流れとその時々の思い考え4(帰任許可〜帰宅)


これまでの記事
エボラ退避の流れとその時々の思い考え1(疑い発生〜コトヌー退避)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え2(ドミ滞在序盤〜中盤)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え3(ドミ滞在終盤)


8月27日(水)午後、JICAから帰任許可が出る。

JICAから今後の対応が発表された。ナイジェリアでのエボラが不特定多数に拡大していないことから、コトヌー退避になっていたウェメ ・プラトー県(ナイジェリアとの国境の県。任地サケテはプラトー県に含まれる。)の隊員および看護師隊員に対し、帰任許可、活動再開許可が下りた。今後、ベナン全土の隊員は、任地の県で疑い患者が発生した場合は任地で自宅待機、陽性が確認された場合はコトヌー退避することとなった。医療機関への立ち入りは一切禁止、不要不急の都市間移動も禁じられた。


待ち望んでいた帰任許可だった。明日にでもサケテに戻ろう。ようやく戻れる。早く戻りたい。そう思うが、同時に、いつのまにか非日常だったコトヌーの生活が日常になりつつあって、サケテが遠く感じ、うまくやれるだろうか、という不安も抱く。チューニングに少し時間はかかりそうだ。


8月28日(木)夜、サケテ到着。

知人の車でポルトノボまで向かい、ポルトノボでお土産としてりんごとパンを買い、乗合タクシーに乗り込む。ドミで始めたギターもしっかり抱える。

すっかり暗くなった20時過ぎ、ようやくサケテに到着した。ずっと帰ってきたかった場所に、ようやく帰ってこられた。夜になっていたからあんまりはっきりは見えなったけど、見慣れた景色をもう一度見ることが出来て、底の方から、嬉しい気持ちが湧きあがってくる。もう戻ってこられないかもしれない、と8日にサケテを発った。20日経ち、忘れないように、と脳裏に焼き付けた景色を再び見た時、安堵感、「ホーム」に帰ってきた感覚を抱き、俺が大事にしたいのはこの景色や人々の醸し出す雰囲気、人との関わりなんだなと改めて認識する。

家では、家族が「おかえり」と嬉しそうに出迎えてくれた。一見怖そうな大家、女性達から子どもまで、大家族のみんなが俺の帰りを喜んでくれている。家の様子は相変わらず。変わってなくて、安心した。あの子がちょっと大人びていて、あの子の身長がすこし伸びたような気がするが、気のせいだろうか。とにかく、戻ってこられて、すごく嬉しい。

当たり前になりすぎていて、ここでの生活の大切さを見失っていた。今回の退避で、その素晴らしさを実感した。これからはこの気持ちを大切にここの人たちとともに生活して行きたい。

ここからがまた新たなスタート。もう一歩踏み出す。村滞在もどんどんしていくし、カウンターパートのおばちゃんの生活にもどんどん関わっていく。もっと住民に近づく。ナゴ語も今のレベルじゃ話にならない。相手の語りを、フランス語を介さず、理解できるようになりたい。
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2014年09月07日

エボラ退避の流れとその時々の思い考え3(ドミ滞在終盤)


これまでの記事
エボラ退避の流れとその時々の思い考え1(疑い発生〜コトヌー退避)
エボラ退避の流れとその時々の思い考え2(ドミ滞在序盤〜中盤)


8月19日(火)〜26日(火) 自分を制限する牢屋への気付き、脱獄の決意、滞在終盤

ナイジェリアのエボラ状況、6日に最後の新規患者が出て以降、新たな疑い例は見つかっていない。2〜20日とされる潜伏期間を考え、27日にはJICAから今後の対応を発表されることとなった。JICA関係者の口ぶりから、発表より前の段階で、任地に帰れる可能性が高いと想像した。


ドミで生活をし、本を読み、いろんな人と話しをしていく中で見えてきたもの。それは、自分の行動を制限しているのは、外にいる誰かでなくて自分自身である、ということ。自分で自分を架空の牢屋に閉じ込めているのである。結局、決断するのも、行動するのも、自分。やりたいことが出来ないのは、出来ない理由を探す自分がやらないからであって、自分に覚悟と行動力があればやりたいことを出来るはず…

ドミでの生活における現場から離れていく感覚も、自分が生活の仕方を変えればある程度はどうにでもなる。洗濯機が嫌なら自分で手洗いすればいいだけの話だし、レストランなんか行かずに道端のご飯屋さん探して食べれば良いし、ナゴ語が話したければ話せる人を探せばいい。すこしずつ行動制限が解けてきて、街に出てもいいことになっているのだから、ドミに留まっているのは、自分の選択でしかない。だったら、自分の選択を変えれば良いだけの話。

任地サケテでの生活では、村に少し滞在したいな、という気持ちが芽生えていたものの、一度も泊まったことはなかった。その一歩を踏み出せなかったのは、サケテの家に一緒に住む大家に夜帰ってくるように言われていたことや、配属先の視学官事務所にも、なんとなく毎日顔を出さないといけない気がしていたからだった。たしかに、いろんな人の意見はあるだろうが、そうした「制限(と思われるもの)」も、結局は、そうしなきゃいけない、と自分で思っているから、その「制限」内で行動しているだけなのではないか?結局、自分の行動を制限しているのは自分自身ではないのか?今の「制限」された行動は、結局、自分自身の選択の結果でしかないのではないか?


読書に耽ったり、映画鑑賞したり、久石譲のジブリ25周年コンサートDVD見たり、フランス語を勉強したり、だらだらしてくっちゃべったり、ギター始めてみたり、ビリーズブートキャンプやったり、語ったり、スキンヘッドにしたり、と任地で生活していると中々出来ないことをいくつかやれて、ドミでの生活はそれなりに有意義であった。だからもうドミに未練はない。任地に帰ったら、もう一歩踏み出そう。自分自身を閉じ込めていた牢屋から飛び出し、村の中に、人の中にどんどん入って、人々の生活を捉えよう。自分を縛る架空の牢屋からの脱獄を決意する。
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2014年09月06日

エボラ退避の流れとその時々の思い考え2(ドミ滞在序盤〜中盤)


前回の記事
エボラ退避の流れとその時々の思い考え1(疑い発生〜コトヌー退避)


8月8日〜 コトヌー隊員連絡所(通称ドミ)宿泊開始。日本人の気遣いに戸惑う、滞在序盤。

様々な思いを抱えながら、タクシーを降り、ドミの扉をあける。他の隊員10名ほどがすでに到着していた。初めて会う新隊員や見慣れた顔もそこにはあったが、それぞれが違った心持でいるようだ。すぐに任地に戻れるだろうと楽観的に考えている者、みんなのために料理をしている者、ちゃんと配属の日を迎えられるのだろうかと心配する新隊員や仲間と談笑している者もいる。最悪の帰国も考えて上がってきた者は少ないようである。

間もなく、JICAから状況説明を受け、当面の措置として不要不急の外出は禁じられた。ナイジェリアのエボラがどこまで感染拡大しているか全く分からない状況下において、隊員の感染リスクを最大限抑えるためのこのJICAの措置は適切である。エボラの感染経路を考えると、ドミ生活での感染リスクはゼロに近い。

自分自身の感染の危険性が低いとなると、残る不安は、感染がベナン国内にも拡大することによる国外退避である。そこで咄嗟に、ベナン人のエボラ感染も不安だ、と付け足してみるが、これはそう考えるべきだと考えた結果として言っているだけで、きっと俺の本心ではない。


ドミでの共同生活が始まる。早いようで遅いようなテンポで一日一日が進んでいく。


これまでベナン人の中で生活していたから、正直言って、久々の日本社会には戸惑いを隠せない。みんなすごく人が良くて、他人のために働けて、気が遣える人ばかり。女性が多いのも影響しているかもしれない。とにかく、みんながみんなにすごく気を遣い合っている印象を受ける。きっと、日本人にとっては当たり前の気遣いなんだろうけど、ベナン社会で生活してからこれに触れると「みんな気を遣い過ぎていないか?」と思ってしまう。気を遣われるとこっちも同じレベルで気遣いをしなきゃいけないのかなという気がしてくる。もっと図々しい人が多いくらいの方が気持ちは楽かもしれないな。

ベナンの人たちは、良い意味で図々しく、人に頼るのが上手。対等な関係であれば、言いたいことは言えるし、笑ったり怒ったりの感情表現もうまく、ネチっこさがない。気を遣うことは上手ではないが、その分、楽に、ストレスが少ない人間関係を気付いているような気がする。ドミの様子をみていると、日本人は、みんなが気持ちよくストレスなく生活できるように気を遣い合っているが、そのせいで気を遣わなくてはいけない環境を生み出し、かえってストレスを感じる生活を送っているように思える。


8月11日(月)〜 ドミでの生活、現場から離れていく感覚、そして自分を見つめ直す滞在中盤。

ポルトノボで死亡した患者がエボラ陰性であったことが判明した。これにより、ベナンには一件もエボラの例が出ていないことになり、少し安心する。ドミ滞在は31日まで、とされた。外出できる範囲が少し広まった。


大都市コトヌーの一等地に位置するドミとその周辺は、全く異世界であった。ドミでは、明るい電気がこうこうと光り、機械が服を洗濯し、自由にインターネットが出来て、日本語が聞こえる。街の人々の着ている服や振る舞い、人と人との距離感も違う。サケテでは道端で簡単に買えるような生活物資が見つからず、小腹が空いたらスーパーで綺麗に包装された、どこで作られたかわからないようなビスケットを食べ、一回の食事で普段の何十倍のお金を支払う。フランス語を話すことも少なく、ましてやナゴ語を話す機会もほとんどない。一日過ぎるごとに、せっかく近づいていたサケテの人々の生活から離れていく感覚を抱く。現場から離れていく…

こうした不安の一方で、一日中ドミにいなくてはいけない状況は、普段出来ないことをする良い機会でもあるのでは、とも思い始めた。ドミには前の隊員が残していったたくさんの本やDVDがあるし、あまり話したことがない他の隊員とも話が出来る環境だ。また、これまでベナン人相手にやってきた、もしくは、やろうとしてきたコミュニケーション(具体的には、話しをよく聞くだとか、相手の目線に立って物事を捉えてみるだとか)を日本人相手に試す機会としてはもってこいの機会でもある。

また、自分自身と向き合う機会とも言える。これまでのベナンでの生活や活動を振り返り、今後の生活活動をどう展開していくかについて考える時間がある。もっと根本的に、つまり要請とか配属先とか関係なく、ベナンで何がしたくて、ベナンのどんなところを見たいのか。もっと言えば、そもそも自分の大切にしている価値観とは何か、どういう人生を歩んでいきたいのか。これらのことをゆっくり見つめ直すのに、ドミ生活はとても良い機会なのでは?
posted by 木村だっくす at 09:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月04日

エボラ退避の流れとその時々の思い考え1(疑い発生〜コトヌー退避)

8月7日(木)首都ポルトノボでエボラ疑い例1件発生。退避を恐れる。

7月25日にナイジェリアでエボラ出血熱による死者が出てから、数日後のこの日、ベナンにもエボラ疑いが出たとの情報がラジオとJICAベナン支所から流れてきた。

ナイジェリアでエボラ患者が出た先月末から悪い予感はしていたが、とうとうベナンにも来たか。この疑い例がエボラであるならば、瞬く間にベナン中に広まっていくだろう。感染が拡大すればコトヌー退避、最悪の場合には国外退避もありえる。それは嫌だ。まだ日本には帰りたくない。3カ月前に活動の方向転換をしてようやく楽しくなりだしたところだった。今帰ったら何もかも中途半端だ。でも、それも時間の問題な気がする。

エボラ出血熱は、発症患者の体液に触れることによって感染する。これまでの西アフリカ西端三国でのエボラ感染拡大は、家族の看病や医療従事者の治療、死体を手で洗う慣習によって広まったと言われている。ベナンの社会において、家族が患者の世話をしないことは考えられないし、病院でも感染を防ぐ防護服が用意されているとも思えない。それに防護服があっても、それをちゃんと使わないだろうな。エボラがベナンに入ったら終わりだ。

もう一つの不安なのは、ガセネタのエボラ予防策が出回っていることだ。ラジオがポルトノボでの疑い例を伝えたこの日、住民がエボラに関してどういう情報を持っているかを聞いて回った。すると、沸かした水に塩と玉ねぎを入れて飲むだとか、それで身体を洗うことでエボラを防ぐことが出来る、と言うようなことをほぼ全ての住民が口にした。昨日までは「エボラって何?食べれるの?」状態だったのに、一日で町中に「情報」が出回っていて、みんなその日の朝に玉ねぎ塩水を飲んだり、それで身体を洗ったりしたようだ。今自分が持っている情報によると、玉ねぎでエボラは防げないはずだから、この「予防策」を本気で信じている人たちの間に広がる危険性はあるなと思う。

いずれにせよ、まだ日本に帰りたくない。サケテに残っていたい。



8月8日(金)ポルトノボの疑い患者が死亡したとの情報。コトヌーに退避するようJICAから命令を受けた。

昼過ぎだったか。携帯の着信を示す画面にJICAの文字を見て、「まさか」と思った。疑い例が出た時点で覚悟はしていたものの、実際に離れなきゃいけなくなると嫌だ嫌だと駄々をこねたくなる気持ちだ。急いでタクシーを手配し、関係の近い人達のほんの一部にコトヌーに行かなくてはいけないこととその理由を伝え、国外退避も考えて日本に持って帰りたいものをすべてバックパックに詰めて、サケテのもう一人の協力隊員とともに借り上げたタクシーに乗り込む。挨拶出来なかった数人に電話でコトヌーに上がること、いつ戻ってこられるかわからないこと、最悪の場合帰国もありえることなどを伝える。

少しずつサケテから離れていくタクシーからの景色を眺めていると、今までのいろんな思い出がフラッシュバックしてきた。サケテの街並みや人々の生活の様子、子どもたちの可愛い笑顔や若者たちとの腹立たしい関わり、どこに行っても「アラデ!」「ショウタ!」と呼んでくれるサケテの人たち。それまで嬉しかったことも嫌だったことも全て愛おしく思えた。離れるときになって気がついた。俺はサケテが好きなんだ。

ポルトノボに近づくにつれ見える景色も変わってくる。穴だらけの舗装道路、やかましく走り回るゼミジャン、それにまたがる大きな女性、排気ガス、車体スレスレの追い越し、床屋に描かれるバランスのおかしい似顔絵、DIEU EST GRAND(神は偉大なり)という名前のカフェやトラックのナンバープレート。コトヌー上京時にはいつも見ている景色なのに、この時はいつもとは少し違って見える。この環境にいられることは幸せなんだな。まだ日本には帰りたくない。早くサケテに帰りたい。

そこでふと気がつく。俺は自分のことしか考えていないのでは…?死の危険の高いエボラがベナンのすぐ近くまで来て、ベナンの人たちの生命も脅かす可能性があるというのに、俺は「日本に帰りたくない」「サケテに残りたい」なんて自分のことばかり考えている。サケテの人たちがエボラ感染してしまわないかの心配より自分のことばっかり考えている。
結局俺は自己中心的なのか。
posted by 木村だっくす at 06:08| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月14日

本当に死んだのか?

死とは何か。
先日、ヤギ2頭の屠殺を見た。ラマダン(断食)明けの祝いのために家で屠殺をした。喉笛をかき切り、血を出し殺す。身体に空気を入れて、毛を剃り、内臓を取り出し、肉を切る。これといった苦労はなく、ヤギは死んでいく。一頭目のヤギを処理している間、二頭目のヤギはまだ生きていて、一頭目の隣でそれまでと変わらぬ様子で佇んでいた。

屠殺の一連の様子を見て、「いのちの大切さを知りました。」
というありきたりな感想は一切抱かなかった。

代わりに私が抱いたのは、「ヤギは本当に死んだのか?」という疑問であった。

不思議なことに、私には、死んだヤギがほんの数分前まで隣で佇んでいるヤギと同じように生命を宿していたという事実が信じられなかった。同じ個体であるはずなのに、生命を失う前と後で、全く別の存在であるかのように思えたのだ。
死んだヤギからは表情が消え、動きが消え、そして生命が生き物に与えている「何か」が完全に欠けていた。生命を失ったヤギは、もはやヤギとして存在を維持することができず、ヤギの外見を保持したまま肉片と化した。生命を宿していた頃のヤギとの関係は一切断ち切られている。生命を失ったヤギは、「生命を失った」というよりも、元々生命というものを持ちあわせていなかったかのようである。私の前で、ヤギの生と死は完全に断絶しており、両者は重なることも、同一線上に続いてもいなかった。

眼前に横たわる肉片は本当に生命を宿していたのか?
ヤギは本当に死んだのか?


私はこの疑問を抱いた時、ある知人を思い出した。彼はよく行っていた村の長老で、片足がなかった。数年前の交通事故で大怪我をし、切断したのだと言う。彼は、村の入り口に住んでいたため、訪問の度に挨拶する人で、この地域の伝統的なゲームが伝説的に強かった。先日(ヤギの屠殺の一週間ほど前だったか)、久々にその村に訪問すると、その長老が亡くなったと聞いた。突然のことで驚いたが、驚きの次に私が感じたのは、ヤギの屠殺で感じた疑問と同じものであった。

彼は本当に死んだのか?

確かに、頭では彼が亡くなったことを頭では認識している。しかし、それまで動いていたもの、私と関わりを持っていたものが、突然動きを止め、関わることをやめたという現実を感覚レベルで実感出来ないでいる。あの笑顔が素敵な長老と表情の一切を失った遺体との間に、関係があるとは思えなかったのである。彼は死んだのではなく、この世のどこか、私たちの見えないどこかに隠れているだけなのではないか。彼の生は、いまもどこかで続いていて、彼の遺体とともに提示された死は、彼の生とは全く関係のない新たな現象のように思えた。

彼は本当に死んだのか?この死は彼のものなのか?
posted by 木村だっくす at 08:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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